2010年10月22日 (金) 掲載
Facebookは、映画の題材としては適当ではない。まず、文字をたくさん入力しなければならない。そしてそもそも、ハッカーは観客をしびれさせる主役としては若干役不足だ(サンドラ・ブロック主演の『ザ・インターネット』(1995年)を思い浮かべてくれればわかるだろう)。だが、一番の問題点は、Facebookがハリウッドの魅力をいつの間にか古ぼけさせてしまったことだ。映画評論家たちは賛同しないかもしれないが。ジェームス・キャメロンの『アバター』(2009年)でさえ、5億人の“友達”はいない。Facebookには5億人のユーザーが訪れる。“我々”が、映画になったのだ。そして、僕らが観ているのは、誰がどんなサンドイッチを食べただとか、そんなくだらないコメディなのだ。
『ソーシャル・ネットワーク』は初期Facebookの論争をドラマ化した映画だ。稲妻のようなスピード感あふれる作りで、役としてのオタク、そして、リアルなオタクさえもセンターステージに甦らせたいという映画制作者たちの気負いが感じられる。遠い昔に消え去った、だが未だにネット上では得られない、映画を観ることの喜びを観客達の胸の中に呼び覚ましてくれる作品なのだ。テンポのよい台詞、厄介なシチュエーション、心を打つ演技、そしていまの我々が直面している社会の課題のひとつ、「人々とどうやって繋がるか?または、どう断絶するするか?」に、柔軟に切り込んでいく。Facebook創立者にしてCEOの億万長者マーク・ザッカーバーグにとって、この映画は悪評になるかもしれないが、もし自分が彼の立場だったら、この秀逸で挑発的で美辞麗句(かどうかはわからないが)にあふれた脚本にひざまずいて感謝するだろう。
ザッカーバーグは、短気でキレやすいハーバード大学の“嫌な奴”として登場する。この言葉は映画のテーマであるかのように存在する。この将来のFacebookのCEOを演じるのは、『アドベンチャーランドへようこそ』(2009年)で主役を演じたジェシー・アイゼンバーグ。彼はこの作品でついに、そっくりでよく比べられるマイケル・セラから解放された。
ザッカーバーグ本人は、脚本家のアーロン・ソーキンに取材すらさせなかったと言われている。ソーキンは、大ヒットテレビドラマシリーズ『ザ・ホワイトハウス』で、最新の政治事情を取り扱うことで知られている脚本家だ。だがザッカーバーグの協力を得ずとも、ハーバード大学の伝統的社交組織『ファイナル・クラブ』から信頼できる内部情報を得ることができた。小説『ドラゴン・タトゥーの女』の主人公、リスベス・サランダーを彷彿とさせるルーニー・マーラは、別れそうになっているボーイフレンドに一言、冷たく言い放つ。「ロングアイランドのどこ出身だっけ?ウィンブルドン?」
振られた腹いせに、酔っぱらった“コンピューターの天才少年” ザッカーバーグは、オンラインサイト『Facemash』を使って彼女を間接的に攻撃し、追いつめる。そして、同時に、Facebookの原型ができたのだ。このことでマークは大学中の嫌われ者になる。そこへ、『ベニスの商人』でユダヤ人高利貸しから金を借りたキリスト教徒のアントニオのような、ボートをやっている双子のキャメロンとタイラー・ウィンクルボスが登場する(一人二役を好演するのはアーニー・ハマー)。この双子の兄弟は、マークの才能を彼らが展開していたサイト作りへ役立てさせ、マークのイメージアップを図ろうと持ちかける。「まさか。そんなことを僕にしてくれるのかい?」ぼさぼさ頭のザッカーバーグは、兄弟たちのたまり場であるバイク置き場で、苛立ちを隠さずに聞く。
セックス、金、ユダヤ的パラノイア、アルゴリズム。映画の冒頭30分にこれだけの要素が凝縮されて詰め込まれている『ソーシャル・ネットワーク』は、全盛期のパディ・チャイエフスキー以来、誰も挑戦しなかった領域に彗星のごとく現れた。チャイエフスキーが書き下ろした、邪悪でめくるめく展開をする映画『ネットワーク』の後継者になりうるのかもしれない。
ソーキンの巧みな構成は、舞台を暗雲たちこめる法会議室へと切り替える。裏切られた共同設立者のエドアルド(演じるのは作品の中心的存在のガーフィールド)と、マークにより大きな成功を目指させるナップスターの創立者のショーン・パーカー(ティンバーレーク)の間で、マークは天使と悪魔のささやきに翻弄される。だが、作品は説教臭くならず、ビジネスの成功と人生の成功の選択を描いていく。それはユーザー全てがセルフプロモーターになれるFacebookそのものの姿だ。作中に登場するのは、未来の我々自身の姿だ。“友人”を遠ざけ、世界と繋がる。未だかつて、映画がこれほどまでに人生の構図そのものを分析しようとしたことがあっただろうか。
デヴィッド・フィンチャーは、これまでどう捉えればよいかわからない人物だった。キューブリックの熱狂的支持者なのだろうか、またはブラット・ピットを痛めつけるスタイリッシュな拷問のプロなのだろうか。『ファイト・クラブ』(1999年)と『セブン』(1995年)の監督としては、その両方なのかもしれない。2007年の幽霊的な『ゾディアック』(ブッシュ政権特有の不明瞭な告発への恐怖)以来、彼の本物さは知れ渡った。フィンチャーが撮りたいのは全てを取り入れた大作だ。『ソーシャル・ネットワーク』では、そのチャンスが与えられた。デジタルチックなヴァージョンの『イン・ザ・ホール・オブ・ザ・マウンテン・キング』が流れるなかでのボートレースは、『時計じかけのオレンジ』のようにいたずら的だ。だが、フィンチャー的演出はしっかりと存在している。彼の偉業は、傲慢な主人公、ザッカーバーグへの理解だ。彼を謎めいた、PCだけが友達の孤独なパンドラに仕立て上げるのは、優れた達人にしかできない技なのだ。
原文へ(Time Out New York / Issue 783 : Sep 30–Oct 6, 2010)
デヴィッド・フィンチャー監督(『ファイト・クラブ』/1999年)と脚本家のアーロン・ソーキン(『ザ・ホワイトハウス』/1999年~2006年)は、悪意と不安に満ちた『Facebook』誕生の物語を作り上げた。ソーキンの饒舌な辛辣さと、フィンチャーの不気味で鮮明な映像が一体化した作品に仕上がった。
物語は2人の学生の強烈なやり取りから唐突に始まる。マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーク)とそのガールフレンド、エリカ(ルーニー・マーラ)は、ハーバード大学のバーで向かい合って座りながらビールを飲んでいる。そのやりとりは、とても会話とはいえない。彼女はスマートに普通に話しているが、彼は彼女と目も合わさず、一方的に、返答を選択しながら会話を続ける。そして、会話が彼の思っていない方向へ行くと「それマジなの?」と驚いて反応する。
これは、Facebook創設者であるザッカーバーグと、彼の発明が求めた“交流の限界”について解釈した素晴らしいシーンであると同時に、作品全体のコンテクストにおいて、恋人、敵、ビジネスパートナー、Facebook上の友達など、人と人の間にある不気味な空虚さについて直接的に表現した秀逸なシーンだ。社交性の無さ、アイビー・リーグの排他性、そしてコンピューターの天才児という最悪な組み合わせが、いかにして世界的な現象にまでなり得たのかということを探る、物語のための巧みなプロローグである。
物語が進んですぐ、ザッカーバーグの“社会”の中での影響力が明らかになり、その力は、舞台がベニヤ板張りの学生寮とマサチューセッツの雪に閉ざされた修道院生活から、流行のバーとカリフォルニアのパロアルトにある彼のヒップなオフィスに移っても続く。ザッカーバーグは学生向けの様々なウェブサイトを開発していくうちに、親友のエドアルド・サヴェリン(アンドリュー・ガーフィールド)とTheFacebook.comを立ち上げる。ザッカーバーグほど奇妙でもなく、温厚なサヴェリンは、ザッカーバーグが“嫌われている”と感じて距離を置いていたハーバードの学生クラブとの、橋渡し役でもあった。
Facebookの成長と同時に、現実世界でも成功、ザッカーバーグは好感のもてるナップスターの創立者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレーク、配役が良い)の誘いをうけ、カリフォルニアへの移住を決める。パーカーは、ザッカーバーグにそれまでとは違った“クラブ”の非公式会員資格を与えたようなものだ。そこは、日中は投資家が集い、夜な夜なパーティが繰り広げられている世界だった。ザッカーバーグはパーティ好きではなかったが、何かの一部であると感じることは好きだった。ちょうど、ネット上で写真を閲覧することに至福の喜びを感じるFacebookのユーザーたちのように。
ザッカーバーグ役のアイゼンバーグの演技は特筆に値する。オタク的な服装(フード付きパーカー、サンダル)、まじめくさくて固い声、大きくぎょろついた目、一度として落ち着かない動作。アイゼンバーグの存在自体が、矛盾の象徴として描かれている。社会には順応できないが自信過剰、商業には無知だがビジネスの勘は鋭い、というように。
作品の中心は近年世間を騒がせたFacebookの法的論争を軸に進む。サヴェリンのFacebookに対する不当解雇の訴え、そしてザッカーバーグに自分たちのアイデアを盗まれたと訴えるハーバード大学のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマーが双子の一人二役を好演する)。彼らとの協議と、ザッカーバーグの非協力的な態度が作品の骨組みとなり、そこはシリアスだ。だが、映画全体としては、基本的にはテンポのよい、ハイテンションでどこかおかしく、入り組んでない物語として楽しめる。
『ソーシャル・ネットワーク』はザッカーバーグに鋭く切り込み、社会から切り離された人間の魂が、世界をつなげるネットワークを生み出したことへの皮肉を浮き彫りにする。ただし、これはフィンチャーとソーキンの解釈であり、事実に基づいてはいるが、多少は作り手のテーマに沿うよう加筆されていることを忘れてはならない。といっても、楽しげなパーティがあり、法廷争いがあり、ユーモアあふれる台詞があるだけではない。この作品が単なるスマートな作品、さらにはテクノロジーがあふれる時代への単なる批判だけに終わっていないのは、フィンチャーとソーキンが、我々が(少なくとも我々のうち5億人は)、この物語の一部であることを忘れさせないからだ。もしザッカーバーグの世界が Facebookそのものであるとしたならば、それは我々自身の世界なのではないか。ザッカーバーグに後ろ指をさしていたつもりで、実はその指先が自分自身に向いている可能性について考えさせられる。
原文へ(Time Out London / Issue 2095: 14 – 20 October, 2010)
映画『ソーシャルネットワーク』
2011年1月15日(土曜日)より全国ロードショー
公式サイト:www.socialnetwork-movie.jp/
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