インタビュー:ヒカシュー

テクノポップから喉歌まで、巻上公一がすべてを語る

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インタビュー:ヒカシュー

注釈の少ない日本のロック史の中で、ヒカシューはかなりの変わり者である。リーダーの巻上公一は俳優出身。1970年代後半の東京におけるアングラ・ライブシーンで活動していた彼らだが、日本におけるニューウェーブを代表するバンドの一つとして早々に知られるようになる。ピー・モデルやプラスティックスなどとともにヒカシューは歪んだポストモダン的なシンセポップでヒットチャートを駆け上がった。巻上の芝居がかった歌い方がヒカシューの曲の特徴でもあった。しかし、ライバルバンドは次々と解散し、ヒカシューのみが活動を続けていき、時とともに彼らは確実に一風変わった方向へと進んでいった。1990年代にレコード会社との契約もなく、バンドのディスコグラフィーは10年以上もの間、新曲の発売がない状況でありながらも、彼らはライブ活動を続けていた。

2006年、巻上のレコードレーベルより「転々」を久しぶりに発売し、ヒカシューのディスコグラフィーの空白に終止符を打って以来、彼らは精力的に音楽活動を再開、2010年にはフジロックフェスティバルに出演もする。かつてのシンセポップはどこにもない。巻上は今の彼らの音楽をパタフィジカルポップとインプロヴィゼーションと表現し、彼らのライブはかつてのヒット曲を二の次にし、長編のインプロヴィゼーションや口琴のソロ演奏が中心となっている。今週、彼らは4月8日(日)に15枚目となるアルバムを発売した。このアルバムは2011年の5月にニューヨークで収録された。『うらごえ』は歌とインプロヴィゼーションのミックスであり、ジャケットは現代美術作家として名高い束芋が手がける。束芋はヒカシューの古くからの友人であるとのこと。

巻上は、ヒカシュー以外でも活躍している。インプロヴィゼーションシーンで有名であり、国内外のアーティストとセッションを組んだり、ジョン・ゾーン率いるコブラとパフォーマンスをしたりもしている。また毎年開催される『JAZZ ART せんがわ』の主催者の一人である。このフェスは主流の東京JAZZに対抗してアバンギャルドなジャズフェスであり、7月20~22日に開催されている。この他にも1990年代よりトゥバへ喉歌の勉強もしにいっている。

― 新しいアルバム『うらごえ』を発売しますが、昨年の3.11の数ヵ月後に収録されていますね。3.11の大震災はアルバム収録に影響がありましたか?

巻上:収録当時は大震災が影響すると思っていなかったが、やはり影響はあったと思う。3.11の直後から「これから何をしたらいいのだろう」など居心地の悪さのようなものを感じた。3.11以前に完成した曲もいくつかあったが、震災後に作った曲は確実に影響を受けていると思う。収録のタイミングが今であればきっと曲も少し変わっていた可能性がある。あまりに悲惨な事件のあとに収録したアルバムゆえに非常に面白いアルバムが出来たと思っている。これこそがこのアルバムの最も重要なポイントであると思っている。

― ニューヨークで収録されているアルバムの一連の中で『うらごえ』が最新のものとなりますが、もともとニューヨークで収録するきっかけは何だったのでしょうか。

巻上:5-6年前にジョン・ゾーンのライブスペースを1週間任されたことがあり、出演バンドの一つとしてヒカシューを入れたことがあった。ジョンは「そんなお金はないよ(笑)!」って真っ向からこれに反対だった。現にメンバー全員のフライトを出すことが出来なかったが、一部を出してくれた。もしメンバー全員がニューヨークに集まるのであればニューヨークでレコーディングをしようと最初から決めていた。そのときが今のメンバーで収録する初めてのアルバムであり、どうなるのか興味があった。結果から言えばいいものが出来た。それからニューヨークにこだわっていこうと思った。今ではメンバー全員が50歳を超えている。彼ら全員もモチベーションを上げるにはどこか日常から離れた場所に行った方がいい。日常には気が散るものが多すぎるが、日常から抜けだすと集中することが出来る。若いころのエネルギーと集中力が戻る。また、ニューヨークには多くの友達もいるし、この街はあらゆる音楽にあふれていて、刺激になる。少なくともこれまではそんなことが理由でニューヨークに行っていた。場所を変えるとしたらどこがいいかな?

― 昨年ツアーでシベリアに行かれましたね。シベリアはどうですか。

巻上:シベリアにいいスタジオがないんだ。本当に残念だ。もしいいスタジオがあればあそこでレコーディングをしたい。僕らはシベリアで演奏をした初の日本人ロックバンドだった。ロンドンを拠点としているフランク・チキンズという女性のユニットが一度ツアーでシベリアでプレーをしているが、彼女達はロックバンドではないし(笑)。どちらかというとパフォーマンス・アートに分類される。




― シベリアでの反応は?

巻上:我々が予想していたものよりはるかに良かった。行く前は少し不安だった。モスクワは何度もパフォーマンスをしたことあるし、何の問題もなかったが、シベリアは初めての場所だったし、反応が全く読めなかった。バルナウルとノボシビルスクでは、観客の多くはロシア人で、反応はとても良かった。ただ、トゥバとアルタイでは観客を盛り上げるのに苦労をした。これには本当にどきどきした。我々はロックバンドであるわけだし。それでも現地に住む友達でさえ立ち上がらない。友達は一人や二人ではない。10年以上もの間、毎年この街を訪れている。友達もたくさんいる。それなのに観客はもはや日本の観客みたいに出だしは静かだった。ただ、パフォーマンスが終わるころには盛大な拍手をいただけた。次に行く機会があれば観客の乗りも違うと思うが、またいくかどうかわからない。シベリアにツアーで行ってあまり稼げなかったし。

― トゥバの音楽との出会いは?

巻上:トゥバの音楽との出会いは1994年だった。ダンス白州という田中 泯氏が主催するフェスで出会った。毎年さまざまなアーティストが参加し、セシル・テイラーやデレック・ベイリーも参加したことあったりと、とても刺激的なイベントで、その年にトゥバからホーミーのアンサンブルが出演した。そのとき初めてトゥバの音楽を耳にした。それまでモンゴルのホーミーの音色は何度も聞いたことはあったし、とても魅力的であると感じていたが、自分がそのような音楽を演奏しようと思ったことはなかったし、それに似たことをしようと思ったことがなかった。単純にいいと思っていただけだった。ただ、トゥバの音楽を聴いたときケミストリーのようなものを感じた。歌もメロディーも何もかもがロックのように聞こえた。

― ヘヴィメタルのように聞こえますね。

巻上:そうそう。あの歌い方にすっかり魅了された。違うジャンルの音楽がうまく混ざり合っているところがたまらない。モンゴルの歌と一緒になって、ホーミーが特定の曲のメロディーのためだけに使われているようで。古典的なところもあって、日本の民謡のようであるけれど、トゥバの音楽の方がより生命力にあふれているように感じる。そんな理由でこの音楽にはまり、1995年以来毎年トゥバを訪れている。

― トゥバには何をしにいかれたのですか?

巻上:初めてトゥバを訪れたのは1995年だった。第2回国際ホーミーシンポジウムとホーミーフェスティバルに参加した。今と違ってトゥバへの道のりは本当に大変だった。フライトの予約をするコンピューターアクセスがどこにもなくて、チケットが買えなかった。しかもロシアに一旦入れたとしてもトゥバまでのフライトチケットは片道しか売ってもらえなかった。まさに大冒険だった。シベリアなどロシアのどこかの都市から日本の帰国チケットを購入し、その都市に行き、そこでトゥバまでのチケットがあるかを探すのだ。本当に大変だった。帰国しようとアエロフロートのデスクに5回も出向いてチケットを購入しようとしたけど毎回断られたのを覚えている。何度デスクに行っても「ニェット、ニェット、ニェット」としか言われなかった(笑)。今はずいぶん楽になった。北京回りで行けば1日でトゥバにつくことが出来る。

― ヒカシューの話題に戻りますが、「うらごえ」は尺八をフィーチャーした初のアルバムですね。いつから尺初を演奏されているのですか?

巻上:昨年始めて吹いてみた。家でたまに吹いているフルートがあるが、昨年尺八を購入してみた。安く、竹ではなくプラスチックで出来たいい尺八を見つけたからツアーに持っていけると思った。吹いてみたら音が出たから「これなら使える」と思った。たまに何の音も出ないこともあるけど(笑)、そんなときは「くそっ」って思う。

― 尺八を吹いてみようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

巻上:トゥバに3月12日に行った。まさに震災の翌日だ。トゥバで日本とトゥバの交流会に招待されていた。日本の楽器を持っていくのもいいなと思い、尺八なら小さいし分解も出来るし持ち運びやすいからちょうどいいと思った。もちろん吹けたものじゃなかった。パフォーマンスのビデオを見たらわかるが全く演奏になっていなかった(笑)。それ以降少しずつやり方がわかるようになってきたけど最初は全くふけなかった。今ではメロディーを演奏できるくらいになったよ。

― 尺八でなければ表現できない何かがあると思われましたか?

巻上:それはわからない。ただ尺八を演奏するロックバンドは少ないことは確かだ。だからそれはいいことだと思う(笑)。尺八を演奏するフュージョンバンドやジャズ演奏家はいてもロック音楽と尺八のコラボレーションは聴いたことがない。しかも尺八を尺八として演奏するつもりはもともとなかった。一種の音声共振装置として使っている。そこは重要なポイントだ。

― 長い間同じバンドで活動しているとどのようにして新しいアルバムを作ろうというモチベーションを駆り立てるのですか?

巻上:僕らのアルバム製作はいたってシンプルだ。僕が歌詞を書き、それを時と場合によってメンバーに渡す。その時点では通常あまり素材がない状態にある。だからレコーディングの日程を僕が決めてしまう。そうすることによってことが進みやすい。いいものが出来るときもあればだめなときもある。新しく出来たその素材をライブで演奏したりしてアレンジを決めていく。アレンジが最も時間がかかる。レコーディングの日程を決めてもいつも延期してしまう。確定的なコンセプトを元にアルバムを製作することはあまりない。誰にも気づかれないようなコンセプトを持っていたい。大きなコンセプトがあるとたいてい失敗する。

― アルバムの中の曲目でインプロヴィゼーションもありますが、どのようにインプロヴィゼーションをされていますか?

巻上:思うがままに演奏している。演奏するものをイメージをもって演奏するのが普通なのかもしれないが僕は違う。ポイントはスタジオの雰囲気だ。早くレコーディングは始められるかどうかが重要だ。10時にスタジオ入りしてすぐにレコーディングを始める。これは本当にびっくりするよ(笑)。だけどこれは重要なのだ。午前中だけで5曲のレコーディングをすることが出来る。



巻上:最近ヒカシューは面白いイベントに参加している。エレクトロニカアーティストのオオルタイチとコラボレーションをしたり、若いバンドと一緒にみんなの戦艦2012に参加したり。 最近多くの若いアーティストが僕らと演奏したいといってくれて本当に幸運だと思っている。

― ということは本当に最近の話なのですか?なぜ今なのでしょうか?

巻上:不思議だよね。よくはわからないがYouTubeが関係しているのではないかと思っている。僕らを知らない人達でもYouTubeで僕らの古い映像をみて「こんなことをしていたバンドがいた」ことを知ることができる。

― アルバムの再リリースよりYouTubeが重要な要因だと思いますか?

巻上:若い人達にとってはきっとそうだろう。ただで何かが聞けることが重要なんだ。ただでなければ、若い人達を引き寄せることは難しい(笑)。たまに払うことがあるけど。本当にほしい音楽であればCDを買うかもしれないが。

― しかし多くのアルバムを最近再リリースされていますよね。

巻上:これは昔からやってみたいことだった。やりたいことがたくさんあったのにそれを具現化できないでいた。僕らの古いアルバムを聞きたくてもオークションで高額な値段がついていたりして手の出ない人が多くいた。たいてい1枚5000円くらいの値段でアルバムは取引さているが、2万円という値がついたのもあり、本当に欲しいと思う人はその値段を払ってでもアルバムを手に入れてくれていた。ただ、そんなのおかしいと思ったし、僕らにとって何のトクにもならないし(笑)。再リリースはもう終盤に来ている。ほとんどの曲を再リリースした。

― ヒカシューを聞いたことのない人に何をまず勧めますか?新しいアルバム、それとも古いアルバムを進めますか?

巻上:新しいアルバムを進める。古いものはとりあえず忘れてもらって(笑)。今の僕らはもはや違うバンドともいえる。僕らのようなバンドは日本に少ない。その意味では僕らは幸運だと思う。ただライバルが少なく、それは残念なことでもある。もっとライバルがいればいいのにと思うがいないのが現実だ。

― テクノポップバンドだったときの方がライバルがいたように思うが、3枚目のアルバム以降から独自の路線を歩んでいるように思いますが。

巻上:そんなんだ。ヒカシューにしか出来ないものをやろうとしている。実は僕らのライブはほとんどインプロヴィゼーションだった。結成当初からインプロヴィゼーションしかしていないバンドだったともいえる。大手レーベルと契約をして、ただの曲を演奏した。曲を少しずつためていき、徐々に僕らの最初の頃の目標とするバンドに近づいてきている。

― 30年もの間バンドが活動し続けているというのは珍しいことですがその秘訣は何でしょうか?

巻上:肩肘を張っていないことだと思う。そして事務所に所属しなくなったことも理由だと思う。マネージャーがいるとその人のために働かなければならない。その人のために働かなければいけないから演奏するのではなく何かを作り出したいから演奏したい。早い段階からこのようなスタンスを取り始めた。大手レーベルに所属したのは1年程度でそれ以降はアルバムのリリースのたびに契約を結んだ。1980年代から1990年代までにリリースされた多くのアルバムはどれも自分達でレコーディングのタイミングを決め、スタジオを借りた。費用もレーベルと折半していた。これしか方法はないと思った。今では日本でさえインディーズと大手レーベルの間に大きな差もなくなったから昔より楽にレコーディングができるかもしれない。今ではインディーズでリリースしたとしても注目されることもある。



― ジョン・ゾーンについて伺いたい。二人の出会いはいつでしょうか?

巻上:ずいぶん昔のことだ。彼が高円寺のアパートに年の半分を過ごし、残りをニューヨークで暮らしていた。高橋悠治という作曲家でピアニストの舞台で初めてジョンとであった。僕は演技をしていて、ジョンは演奏していた。毎日顔を合わせていたら友達になった。一緒に音楽を作る機会はあまりなかったがお互いよく会ったりした。1988年にヒカシューのライブでジョンがゲストとして演奏をしてくれた。1990年代始め、1994年とか1995年に自分の人生の転機があった。ヒカシューはあまり活動をしておらず、レーベルとの契約もなかったため僕はソロ活動をメインにしていた。そんなときにジョンがソロアルバムを出すよう進めてくれて、ニューヨークに毎年行くきっかけを作ってくれた。それ以来毎年ニューヨークとトゥバに行っている(笑)。

― コブラとのセッションもそのときが初めてですか?

巻上:コブラと初めて一緒に演奏したのはニューヨークにあるニッティング・ファクトリーというライブハウスでのことだ。当時はジョンではなくノーマン・ヤマダという人が毎月プロンプターをしていた(確か1992年ごろだと思う)。ニッティング・ファクトリーでの演奏は初めてでそのときのルールは今でも覚えている。後にジョンがコブラの法政大学でのパフォーマンスに参加し、そのときにはニッティング・ファクトリーのすべてのルールをマスターしていた。ニューヨークで毎月コブラで演奏していたからジョンに日本でも演奏できるんじゃないかと言ったら「そうだね」って。そして渋谷のラ・ママで3-4年もの間、毎月演奏した。結構疲れたよ(笑)。今では年に2回ほど演奏している。

― 昨年はトクマルシューゴとのコラボもありました。これは非常に面白いと思いました。

巻上:そう思ってコラボをしたんだ。音楽が好きな人を選び、その人と演奏することでも音楽を作ることが出来る。そしてトクマル君のような人にとってもジャンルが違う、これまで知らない他のアーティストと会ういい機会だと思う。このような出会いでお互いを知り、新しい音楽が生まれるからこのようなコラボを企画するんだ。面白ことがしたいし。東京の音楽シーンはもっと面白くあるべきだと思う。東京には伝統あるライブハウスがたくさんあり、そこでは誰もが同じような音楽を演奏している。そしてみんながお互い知り合いだったり。そんなことより、ジャズだったりロック、他のシーンの人達が集まって演奏したほうが面白いと思う。


ヒカシューは2012年5月2日(水)にラ・ママで演奏する。その後、大阪、京都、名古屋でもライブの予定あり。

インタビュー ジェイムズ・ハッドフィールド
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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