Sコッポラ新作『サムウェア』 評

タイムアウトロンドン発、ソフィア・コッポラ待望の新作『SOMEWHERE(サムウェア)』レビュー

Sコッポラ新作『サムウェア』 評

(C)2010 - Somewhere LLC

タイムアウトロンドン レビュー

歴史的解釈が賛否両論を呼んだ『マリー・アントワネット』(2006年)に続く、ソフィア・コッポラの最新作『サムウエア』を観た後、まるでよく知っているデジャヴの世界に紛れ込んだような錯覚に陥った。だがこの感覚は、作品をを失敗作として決定付けるほどのものではない。ただ、ソフィアが甘やかされた美しいエリートたちの疎外感(彼女自身が一番よく知っている世界だ)を描くことに成功したのか、それとも、前と似たような題材で一本撮ってしまったというだけなのか、観客はそういった判断を下すことにはなるだろう。ではこの作品が、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)とテレビシリーズ『アントラージュ★オレたちのハリウッド』(2004年)の間の特異な隙間に入るかどうか吟味してみよう。

主役のジョニー・マルコを演じるのはスティーブン・ドーフ。ジョニーは端正な顔つきのハリウッド俳優で、華麗な銀幕の世界の“表向きだけの単調さ”に辟易しながらも、そこから抜け出せずにただ身をまかせている。記者会見では同じ言葉をただ繰り返し、共演者たちとは小洒落た会話を一言二言交わす。それ以外はビールを片手にベッドにもたれ掛かり、部屋の向こうで踊っている双子のポールダンサーたちのセクシーな踊りを“楽しみながら見ているふり”をする。ストーリーが始まるのは映画開始から約20分後、ここまで台詞らしい台詞はほぼ皆無だ。ここで彼の前に、別れたガールフレンドとの間にできた娘のクレオ(エル・ファニング)が現れる。この娘の登場により、ジョニーは長期間に渡って、海外でのプロモーション旅行という名の無味乾燥な虚無の世界に彼女を同行させなければならなくなる。

ジョニーとクレオの関係は“制御”されており、美しい。父と娘のお涙頂戴な感情のぶつかり合いはまったくない。やり取りは物静かで、互いに気を許している様子がわかる。だが、いわゆる親子関係ともやや違う。ジョニーはまるで自分につきまとってくるプレイメイトとうまく距離を取るかのようにクレオを扱う。スティーブン・ドーフは悲しい顔つきの主役を見事に演じており、ここ数年の彼の作品では最も強く繊細な演技を見せつける。だがこの作品での新発見はファニングだ。彼女の軽快な、自然体の演技は、まさに楽観的な11歳の少女そのもの(40歳の子供のような演技をする姉のダコタとは違う)。クレオは父親の内面の居心地の悪さに気づき、母親のような視線を実の父に注ぐようになる。

この映画はソフィア・コッポラにとって、最もリクスが高く、かつ芸術的な作品だろう。彼女の鋭く風刺の効いたフィルターを通すと、ポップカルチャーは嘘の笑顔が蔓延する偽りの世界に早変わりする。今回は『ロスト・イン・トランスレーション』にみられた小粋な台詞にも頼っていない。全体を通じて、いくつかのシーンは無意味に長い(クレオがエッグベネディクトを調理しているシーンなど)。映るものは無味乾燥に撮られている。出来上がった映像に意味を求める観客の期待をソフィア・コッポラはあっさりと裏切り、代わりに全編を倦怠感で包み込む。だが、決してやりすぎることはない。もしそうしていれば映画のテーマをさらに強調できたかもしれないが、商業的成功は難しくなっただろう。

ありふれた型にはまらない、静寂かつ啓示的なエンディングを模索したためか、あろうことか『サムウェア』は『ロスト・イン・トランスレーション』と同じ手法で映画を終える。ジョニーは“甘い生活”をしながらも、ハリウッドのセックスまみれのグロテスクな人間関係とは一線を画した人物だと表現してきたにも関わらず、だ。この作品は成功と名声を手に入れた男が、自己を見失うことに同情的ではある。だが観客の中には、ジョニーをひっぱたきはしなくとも、いい加減にだらしなく脱げかけた綿100%の手織り高級靴下をきちんと引っ張り上げて、つまらないことでくよくよするなと怒鳴りつけたい人もいるだろう。

タイムアウトロンドンレビュー原文へ(Time Out London Online / Sept, 2010)

『SOMEWHERE』(原題)
2011年4月2日、新宿ピカデリー他全国ロードショー
配給:東北新社
公式サイト:www.somewhere-movie.jp/



ロンドン原文 デイヴィッド・ジェンキンス
ロンドン翻訳 佐藤環
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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