インタビュー:宮川秀之

映画『ピンクスバル』のエグゼクティブ・プロデューサーが語る作品との出会い、これからの日本

インタビュー:宮川秀之

(C) NIKITA

2011年2月のゆうばり国際ファンタスティック映画祭で審査員特別賞とシネガーアワード(記者賞)の2部門を受賞した『ピンクスバル』。日本人監督の小川和也が、イスラエルとパレスチナの境界にある街で起きたスバル車の盗難をめぐる騒動を通して、紛争地帯と知られる地域の何気ない日常を描いたコメディー作品だ。

この映画のエグゼクティブ・プロデューサーが、イタリア在住の宮川秀之。宮川は、終戦直後に計画した世界一周オートバイ旅行中に訪れたイタリアで永住を決意。1968年、ジウジアーロと共に『イタルデザン』社を設立し、カーデザインを中心に、日本とイタリアンデザインとの橋渡しとなるプロジェクトを多く手掛けている。1983年にはトスカーナにワイン農園『ブリケッラ』を設立し、欧州有機ワインコンクールでの金賞受賞経験を持つ。

イタリアで最も活躍する日本人の一人である宮川に、小川監督との出会い、映画界との関わり、困難に立ち向かう日本のこれからについて話を聞いた。


小川監督とは、どのように出会われたのですか?

宮川: 腐れ縁です(笑)。NHKの欧州総局長だった近藤さんという方から、「ニューヨークで勉強中の小川和也っていう将来を嘱望される青年がいるんで、しばらく預かってほしい」と紹介されて。それで彼にお会いして、非常に頭脳明晰で闊達な青年だったので引き受けました。


監督は農園でどういう作業をされていたんですか?

宮川: 私のワイン農園で、葡萄関係の仕事をひと通りやってもらってました。それで農園で働いているうちに、彼が地方の文化祭を主宰しているグループとコンタクトして、いろんな文化祭の仕事などをやるようになって。そこでアクラムというパレスチナ人と知りあったんです。


映画の主人公、ズベイルを演じたアクラム・テラーウィですね。

宮川: そう。それで、ひょんなことで彼と気があって、アクラムが夏休みにパレスチナの実家に戻る時に彼を招待して、イスラエルへ行くんですよ。そこで彼は、イスラエルとパレスチナ人が住んでいる街が平和で、イスラエルとパレスチナの関係が我々が思っているものとは違うことを知ったんです。そういう平和な生活があることをコメディー風に映画化したいという話が出てきた。そのなかでスバルの話も出てきて、ずっと自動車の仕事に関わってきた僕も興味が出てきたわけです。


イスラエルでは日本車のスバルが人気だと。

宮川: そう。近隣のアラブ諸国は反イスラエル同盟を作っているから、アラブ諸国で売っている車とイスラエルで売っている車は全然違う。イスラエルに車を輸出したらアラブ諸国では買ってくれないわけ。だから自動車メーカーは、どっちかを選ばなくちゃいけないんです。そんななかで、スバルはイスラエルをとった。そしたらスバルの技術がイスラエルですごく認められて、いちばん売れる車になったんです。盗難車としても人気ナンバーワン(笑)。それでスバルが、小川監督のいうところの“希望の星”になったわけです。戦争をしてるような国のコメディーで、それも平和的な自動車の泥棒の話だなんて、非常に面白いと思ったんですよ。


そこで映画の製作として関わってみようと。

宮川: 小川監督が力のある人なら、きっといつかそういう形で手伝うことになるだろうという予感がありましたから。それにプロデューサーとして参加している息子のマリオは黒澤明監督と関係が深くて、彼は黒澤監督の『乱』で助監督をしているんです。その後、黒澤監督のはからいでフェデリコ・フェリーニに紹介してもらって、フェリーニの助監督をしたり、日本人役で俳優としてもちょっぴり映画に顔を出させてもらったんですよ。


宮川さん自身も若い頃、映画に関わったことがあったそうですね。

宮川: ちょうど、オートバイで世界一周をやってて、日本に戻る1カ月前に、木下恵介監督が日伊合作映画を作ろうというんでイタリアにロケハンに来られたんです。その時、僕は木下監督を10日間案内したんですけど、木下監督に気に入られて助監になってくれって言われたんですよ(笑)。


といっても、宮川さんは映画の経験なんてなかったんですよね?

宮川: 大監督が仕込んでくれるつもりだったんじゃないですか。日本に帰ってからも、ご自宅に招いてくださったり、松竹のスタジオを見学させてくれたり、スタッフを紹介してくれたり、ほんと至れり尽くせりだった。だから気持ちの半分は映画をやってみたい、というのがあったけど、残り半分は好きな自動車をやりたいと思ってて。でも、当時映画が斜陽産業になりつつあったこともあって、結局、車のデザインの世界に進んだわけです。


そもそも、戦後の大変な時期にバイクで世界一周しようと思われた理由ってなんだったんですか?

宮川: スポーツカーが欲しかったんです(笑)。世界一周の冒険談を書いて、それで印税を手に入れてMGかなんか買いたいなと。


いかにも若い人が考えそうな一攫千金のお話ですね(笑)。

宮川: 最初は下宿の学生が4~5人集まったときの話だったんだけど、後援会までできちゃって、あとに退けなくなった(笑)。それで、まず資金集めのために宣伝をしなくちゃいけないから、日本一周することになって、43都道府県全部行ったんです。その県庁所在地に行って、三大新聞社のひとつに挨拶に出向く。そうして次の日の新聞に載せてもらって宣伝をするわけです。それで資金も全部自分で工面して、ローマ・オリンピックに間に合うように走り出した。


結局、どれくらい周られたんですか?

宮川: 1年半くらいかな。東南アジアの一部と、あとヨーロッパ。でも途中でやめることになって、スポンサーや後援者の方々に挨拶に行ったんです。絶対、怒られるだろうな、と思ったら、みんな褒めてくれた。この時代に日本から脱出しただけでもたいしたもんだってね。それで冒険は卒業。


その後、自動車のデザインの道に進まれて、イタルデザイン社の前身になる会社を立ち上げて、ジウジアーロをプロデュースしたりするわけですね。今ではイタリアで農園をされて、日本の不登校やひきこもりの若者に働く場所を提供されていますが、そういうプロジェクトを始めようと思われたきっかけは何だったんですか?

宮川: 彼らがどうして引きこもるかわかってましたからね。やっぱり、家族が機能してないんですよ、日本では。それに住むところと働くところが離れすぎている。歩いていけるくらいのところに職場があって、昼飯食べて昼寝して仕事に戻れるような環境だったら、もっとみんなハッピーになれると思う。日本の社会構造自体に問題があるから、街作りから考えていかないとだめですね。


宮川さんから、今の日本の若者たちに伝えたいことはありますか?

宮川: やっぱり、人間って身体があって、精神があって、頭脳があるわけだから、これをもっと活用すべきだと思いますね。いま、日本が沈没するかもしれない状況のなかで、何をすべきかを一生懸命考えないと。みんな考えないで「どうしたらいいですか?」って聞いてくる。災害だって政府のせいにして、全部面倒を見てもらおうとする。


いまこそ、自分たちで考えて知恵を絞る時だと。

宮川: そう。そのことによって何かが生まれるはずなんです。何でもかんでも政府の世話になってたら、政府の言いなりになってしまう。日本では国に頼りっきり。普段の生活でも、何でもかんでも自動化されていて、ドアの前にたつと勝手に開くし、車もマニュアルじゃなくて自動シフトだし、みんなお殿様やお姫様みたいな生活を送っている。やっぱり、自分の身体や頭を取り戻さなきゃ。ポリシーと戦略を持った人格と国の形成。それをみんなでやっていくべきだと思いますね。


最後に映画に話を戻しますが、完成した作品をご覧になった感想はいかがでした?

宮川: 面白い作品になったと思いますよ。僕個人の意見としては、こんなシーンを入れてみたら、とか、そういうアイデアもあったんですが、なるべく口は出さないようにしました。エグゼクティブ・プロデューサーの仕事は口を出すことじゃなくて、お金を出すことですからね(笑)。口を出すと、みんな伸び伸びと仕事ができないでしょう。優秀なスタッフが集まっていますから、みんなで楽しく映画を作ってくれればいい。あとは成功を期待してます。


ピンク・スバル

公開:2011年4月16日(土)から公開中
劇場:UPLINK X
監督・脚本:小川和也
主演・共同脚本:アクラム・テラーウィ
ウェブ:www.pinksubaru.jp/

インタビュー 村尾泰郎
テキスト タイムアウト東京編集部
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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