ファンタジーな美貌、小雪の母親姿

『信さん・炭坑街町のセレナーデ』の監督、平山秀幸インタビュー

ファンタジーな美貌、小雪の母親姿

(C)「信さん・炭坑町のセレナーデ」製作委員会

2010年7月から、2011年2月のおよそ半年間に公開される3本の映画、『必死剣鳥刺し』『信さん・炭坑街町のセレナーデ』『太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-』の監督をつとめた平山秀幸。1998年に公開された『愛を乞うひと』が、第21回モントリオール世界映画祭の国際批評家連盟賞、第22回日本アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀監督賞など、国内外で69の賞を受賞し、アカデミー賞外国語映画賞日本代表にも選出されている。また、2002年には、『OUT』がアカデミー賞外国語映画賞日本代表に選ばれている。人間を徹底的にリアルに描くことに優れた監督だ。今回は、2010年11月27日(土)に公開となる、昭和30年代に、炭坑で暮らした人々の姿を描いた映画『信さん・炭坑街町のセレナーデ』について、話を聞いた。

なぜ今、昭和30年代、40年代の炭坑を舞台にした作品のメガホンをとったのですか?

平山:物語の背景が、僕が子どもの頃に過ごした時代と、北部九州という土地だからかな。自分が過ごした“あの時代のこと”が初めて仕事としてきた。九州を舞台にするだけとか、昔を描くだけだったら、個別には話があるかもしれませんが、最初は照れるというか、やって良いものだか悪いものなのだか、一番踏んじゃいけない地雷を踏んでしまうような感じもしたんですが、あんまりそういうチャンスもないと思ったので、引き受けました。

実際、地元での撮影はどうでしたか?

平山:当時のことを知っている僕より年配の方もたくさんいるし、同級生もいるし、親もいるし親戚もいるとなると、下手なことはできないですよね(笑)。そんなウソばっかりやって、と思われるのも嫌だし、半分プレッシャーを楽しみつつ、撮影をしました。

小雪さんは関東出身ですよね。方言はかなり練習されたんですか?

平山:風景もそうですが、まず言葉にはこだわりました。テレビの方言は、わかりやすいようにデフォルメするんです。九州の方言であっても、北海道の方にもわかりやすいように。今回はそうじゃなくて、字幕がついても良いくらいネイティブな北部九州弁というか。実際は北九州と、田川と、大牟田と博多は違うんですが、最大公約数的な北部九州弁は必要だろうと。役者さんに関しては、全員を九州出身にすることは難しかったけれど、例えば大竹しのぶさんは九州出身じゃないけれど、『青春の門』で織江をやっていますので、そういう意味では、「40年後の織江ですね」という取り組み方をしてくださったみたいです。

「せからしか!」という言葉が何度も出てきましたね。

平山:「せからしか」というのは、どちらかというと博多の言葉なんですが、福岡県の言葉としては一番知られているかな。あと、語尾に「ばい」をつけたりするのが知られていますよね。「うるさい、やかましい、面倒くさい、邪魔くさい」って色んな意味があるわりに、あんまり否定的な言葉ではないのだけど、何かあるとパッと出るような言葉ですね。

タイ語の「サワディーカー」のように、いつ使っても良いような感じなんでしょうか。

平山:そうですね。僕も別の映画の撮影でこの間までタイに行ってたんですが、ずっと「サワディーカー」で通しましたよ(笑)。なんか、そういう感じは確かにしますね。大阪で言うと、「儲かりまっか」みたいなものかな。

小雪さんは本当に綺麗でした。

平山:僕の世代には、あんな女性はいませんでしたからね(笑)。だから当然、信さんにとってもすごくファンタジーな存在。原作者も言っていたけど、モデルがいたわけではなく、誰もの心の中にいるような存在ですよね。

それから、中尾ミエさん、大竹しのぶさん、岸部一徳さんなどベテランの方から、初々しい役者さんや、地元のエキストラの方もいて、とてもエネルギッシュでした。

平山:この映画のロケハンをした時に、炭住っていう、鉱夫の人たちが住んでいた昔の街を見つけたんです。今は、全部合成で“昔”を作れるんですね。でも、今回はそうじゃなくて、まだ人の生活のぬくもりや匂いが残っている場所に、当時のメイクアップをしてもらって、俳優さんにいてもらうというのが、目に見えない濃密さを出したのかもしれないですね。俳優さんの気持ちも、合成でやるのと全然違うと思うんです。だから、ある程度ありのままに再現した場所で、俳優さんに立ってもらっていたのは大きいと思います。CGを使ったのは“島”を生き返らすためと、あとは雪とか。でも、雪も基本的には塩ですからね。なるべく、現実感のあるところに、俳優さんにいてもらうことに気をつけました。

あの、トロッコに乗って、後ろ向きに炭鉱に降りていくシーンがとても怖かったです。

平山:下に降りるまでは150メートルくらいかな。出て行く時は前に見える光に向かうからいいんだけど、降りる時は背中から降りていくんです。昭和38年に三池で事故があって、夕張でも事故があった。設備が大きくなると事故の規模も大きくなる時代でした。チリのように何カ月も待って助けられるようなことはなかった。そして、あの頃から転がり落ちるように、石炭がダメになっていくんです。昔は、事故のことは隠していたらしいんですが、今は、博物館などにちゃんと展示されています。

(C)「信さん・炭坑町のセレナーデ」製作委員会

当時、監督はどんな子どもだったのですか?

平山:映画の中に、「うんこ踏んだ、うんこ踏んだ!」って子どもが出てくるでしょ。あんな感じが一番近いかな、きっとね(笑)。あんまり、自分がリーダーになることはなかったし、まぁ、小汚いのは時代でもあるんですよね。あの炭坑の人たちの姿はリアルですからね。どれが岸部一徳さんだかわからないくらい汚しました。子どもたちもランニング一枚で、鼻をずるずる吸いながら暮らしていましたね。
撮りたかったんだけど撮れなかったシーンがあってね。あの炭坑の人たちがお風呂に入るんですよ。一番湯、二番湯って言って、入った瞬間に真っ黒になってドロドロになるらしいの。100人近い人が入るから、そりゃお湯が汚れるのもあっと言う間だよね。

今は本当に誰もが小奇麗にしていて、青鼻たらした子どもなんて見ないですものね。

平山:今の時代に、あの映画のことをやると、きっと暑苦しくて仕方がないと思う人もいるかもしれない。もう少し今はスローで、エコで、余裕があって、価値観が違ってきている。だけど、当時と今、どっちが良いかは言うつもりはないです。煙突から出る煙は、街がまったく見えなくなるくらいすごかった。だけど、今は、エビがとれるくらいに海も綺麗になっている。あの時代にはあの汚さが必要だったんだよね。経てくることだったんだと思います。僕の田舎も、風景が綺麗になればなるほど、街が寂れてくるのね。観光とか別の方向なことを行政的にやらなければいけなくなってくる。今の時代から後ろを向くのは簡単なんですよ。自分のアルバムを見ていれば良いんだから。でも、それはやりたくなかったんだよね。

5月に地元で公開したと伺いましたが、反応はどうでしたか?

平山:ちょうどその時期、タイに撮影に行っていたものだから、僕は実際に反応を見ていないんですよ。その後も九州に戻っていないから、実際の反応は聞いていないのだけど、11月27日に映画が公開される前に、大きな同窓会があって、それが一番怖いんですよね(笑)。皆、口が悪いですから(笑)。

この半年間で3本の映画が公開になって、20年のキャリアの中でもすごくお忙しいんじゃないですか?

平山:『信さん』は2008年に撮ったんです。2009年の1月くらいには全部作業を終えて、それで春から『必死剣鳥刺し』の準備をして秋に撮って、それも年内に終わって。今は『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』の仕上げをしている。この時代に、1年に1本のペースで撮れるのは、すごく運が良いと思います。半年で3本公開っていうと驚かれるけど、たまたま公開のタイミングが重なっただけで。でも、チャンバラと戦争ものと、炭坑ものは、頭の中で一緒にはできないですよ(笑)。ただ、3つとも、現代劇ではないのが面白いですね。時代劇は昔のしきたりを作りこむ作業がある。昭和30年代の炭坑を作りこんだり、戦場を作りこんだり、それぞれ別の作りこみ方をしないといけないので、それはとても面白いですね。

最後に、監督が東京や福岡で、出かけるのにオススメする場所はありますか?

平山:2007年に、『しゃべれども、しゃべれども』という落語の映画を撮ったんですが、その時にたまたま、隅田川の遊覧ボートを使ったんですね。水から見る東京って、景色がまったく違うんです。大阪に行った時もボートで観光するんですが、水から見る都会は全然違う。それはどの都市に行ってもオススメですね。九州だと、洞海湾という湾があって、若戸渡船っていう、100円で、3分くらいで北九州市若松区と戸畑区を往復する船があるんです。生活の船だから、お客さんはあんまりいないんだけど。九州に帰ると、わざわざ乗りに行きますね。

(C)「信さん・炭坑町のセレナーデ」製作委員会


信さん・炭坑町のセレナーデ

2010年11月27日(土)より、新宿ミラノ、銀座シネパトスほか全国ロードショー
ウェブ:shinsan-movies.com/

テキスト 東谷彰子
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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