2010年10月07日 (木) 掲載
これまで幾度も舞台化されてきた、実存主義文学の中でも有名すぎるほど有名なアルベール・カミュの『異邦人』 。学生時代に勉強の一環として、またフランス文学を専攻していたのなら、授業中に無理やり読まされたこともあるかもしれない。そこに広がっているのは、灼熱の太陽が照りつける北アフリカの乾いた大地で繰り広げられる不条理な世界。存在する、生きる、という一見当たり前なことがらに対してカミュが不条理を突きつける。どこか拒否反応を覚えてしまった、あるいはそう感じるのが怖いような気がしてなんとなく避けてきた、そんな人にこそ見てほしい舞台が、小野寺修二率いるカンパニーデラシネラの『異邦人』だ。その理由は単純。大都会に生きる現代人の多くが感じるいいしれない寂しさや孤独、何かと切り離された感覚、不安感に対して、ひとつの解答を示しているからだ。カンパニーデラシネラの紹介文をパンフレットから引用しよう。
「演出・振付家の小野寺修二によるセルフユニット……演劇、ダンス、マイムを融合したフィジカルシアター的要素を持つ」
実際に舞台はその通りで、セリフもあり、踊りもある。だが、言葉はセリフのようでいて、踊り、あるいはただの動きに見えるくらい抑制のきいたトーンで発されたり、ただメモを渡す、という物理的・身体的動作がコトバ以上に饒舌だったりする小野寺の作り出す舞台は、フィジカルシアターというくくりでは言い表しきれないものがある。いったい彼がやろうとしていることは何なのか、小野寺修二自身に聞いた。
「フィジカルシアターというと、どちらかというとセリフがなくてダンス中心、という印象があります。ただ、僕がフランスに一年いたときに、特にフィジカルシアターの出しものではなくて、ただの演劇のお芝居を観ていたとき、コトバがわからなくて字幕がなくても、喋っている人の感じや動きを見て、結構わかったんです。言葉を使いながら体が動くのは日常的なことなので、そういうところから意味がわかる。そういう経験をして、僕はもともとダンス、マイムの畑にいた者ですが、肉体表現だけを重視するよりはむしろ、垣根がもっと演劇よりになったりと、混ざっていく方が面白いなと思うようになりました。ダンスでは、体を動かすことで見せていこう、と思いがちですが、もうちょっと演劇的なものを“しゃべる”ことも含めてアプローチしていきたい。演劇、ダンス、いろんなものが混ざってひとつの舞台表現になることを目指し、模索しています。わかりやすく言うと、極力、言葉を少なくしていった演劇なのかもしれません」
確かに、日常生活の中で、私たちは言葉を発するときはかならず身体のどこかを動かしている。愛している、という言葉には抱擁がともなうし、苦しい、という言葉には表情筋がゆがむだろう。それは当たり前のことだが、どこかで私たちは言葉と肉体を分けて考えることに慣れてしまっているのかもしれない。だからこそ、饒舌に感情や詩情、あるいは文化そのものを伝える“動き”に出会ったときに、驚くのかもしれない。ニューヨークやロンドンで定着してきているフィジカルシアターという呼称を自らの活動に課されることは、構わないが、若干の違和感を小野寺が感じるのは、人間の体が発することができるおどろくべき情報量をよく知っているからなのではないだろうか。
「外国に公演で行ったとき、“しぐさ”自体で日本人だとすごく言われました。僕らが日常的にやっていること自体が、ある種、日本人なわけです。そういうことを外国の方に見せたいなと思いました。でも“踊る”となると、バレエなどの西洋のメソッドがどうしても多くなってしまいます。ただ今回は、日本の独特の身体表現をずっとされている舞踏の方、日本の中で演劇をずっとやってきた片桐はいりさんなどに参加していただき、カンパニーのメンバーもできるだけ日本人として日常に近いものを想定して作って行きました。ですから、“日本人を見せる”舞台、という風にとらえていただけるといいかと。言葉が伝わる・伝わらない、動きが面白い、といったレベルのことよりも、動きや体、言葉の中に、自然に日本の文化が見えてきて、“日本人て面白いなぁ”と思っていただけたらいいなと思ってやってきています。マイム、ダンス、演劇というカテゴリーではなく、ふだんやっているしぐさ、動きをミックスして舞台で表現する可能性を探しています。フィジカルシアターというのは便利な言葉なので、そう呼ばれても構わないのですが、できれば、日本人であること、これまで自分たちがやってきたことに対して、もっと誇りをもってやりたい。物まねじゃない、ということがはっきりと見えたほうが、外国の方にも興味を持ってもらえるのではないか、と思っています」
そもそも、『異邦人』はフランス人にとっても“異国”である(植民地時代をふくめて複雑で血塗られた歴史を忘れてはいけないが)、北アフリカのアルジェリアが舞台の小説だ。この舞台を東京で見る人の中には、アルジェリアを知らない人も多いかもしれない。確かに、舞台装置や照明などで、アルジェリア的なものは感じる。だが、それは異質な、かけ離れた場所というよりは、自分がよく見知っているような、東京という街のどこか、たとえば自分の部屋といったごく日常的な場所で起きているように思えてくる。不条理の象徴のような主人公ムルソーの言葉に、いつのまにか自分が共感を抱くようになる。小野寺は、このフランス現代文学を読んで、そのことを強く感じたという。
「『異邦人』を読んだときに、そのこと(現代の日本人が読んでもしっくりくる)にびっくりしました。主人公が生きているのは、不条理な、あり得ない世界なわけではまったくなく、まさに“東京そのもの”だなぁと感じたんです。東京に限らずニューヨークなどの大都会で、今生きている人たちの寂しさ、人とのつながり方の難しさなどがある。昔はもっと共同体が強くあったけれど、それが分断されていくと、人に対して自分がどう思うかを読みきれなくなっていきます。ムルソーという主人公はそういう人。だから、その当時の人にしてみれば、ムルソーはすごく不思議な人だったのかもしれないが、原作が世に出てから50年、60年が経ってみると、ムルソーみたいな人は現代社会にいっぱいいて、別に彼みたいな考え方は変じゃないよ、ってみんなが思うようになっている気がするんです。たとえば、母親の死を悼むべきだ、と皆がムルソーに言う。なぜ泣かない、とムルソーに迫る。日本のニュースでは100歳以上の所在不明高齢者が何十万人もいるって伝えられています。要するに、死んでいることですら、自分の父親、母親であっても気づかないということがいっぱいあるということ。当人からすれば、“なんで親が死んで泣くわけ?”という感覚の人もいるでしょうし。そういう、(人とのつながり方の価値観や、様態に)多様性が出てきている中で、カミュの『異邦人』は不条理という名の下に、ある種の常識のようなものをはっきりと語っている気がしていて、興味を持っていました」
全てが整然と共同体の中で機能していて、個と集団の安全が守られていた時代は、不条理は忌み嫌われるものだった。その協同体の殻を破ろうとするムルソーのような人間は後ろ指をさされた。だが今、たしかにかつて当たり前だった価値観は、それを担保していた共同体の崩壊とともに崩れ去っている感がある。現代人が感じる心の底知れない不安は、共同体というガイドを失い、家族というパラソルを失い、無防備なままに北アフリカの灼熱の太陽の下にただの個人として放り出されたことに対する不安と言えるだろう。だが、シビアな状況下でむき出しのままにされて、結構な時間が経ったので、現代人はどこかそんな不条理に慣れてきたところがある。小野寺が『異邦人』で見た不条理とは、得たいの知れない怪物のような不条理ではなく、もっと身近で、言うならば“愛すべき不条理”に近い。
「不条理って、夢など、現実からすこしはずれたところにあると思っていたんですが、カミュの不条理は“人の見方”なのです。ある人が何を不条理とするかはその人が決めることだ、という視点が僕には新鮮でした。ただ“不思議な世界”を創ればそれで不条理を表現できたかというと、そうではない。もしかしたら、見る人によって、見え方が違うということ自体、ひとつの不条理なのではないか、と捉えると、不条理は多様性を帯びてきます。たとえば外国に行くと、日本人は不条理に悩みます。でもその国の人にとってみればそれは日常なのです。自分のいるところで“普通”なことが常識の全てだと思っていたけれど、ちょっと外に出たら、まったく違う世界が広がっている。だから、不条理をもっと受け止めていったらいい、と思っているところがあります。世の中って、自分もふくめて、みんなが思っているほど、“普通”に回っていかないもの。生きていると、いつでも梯子を外されるし、いつでも急に持ち上げられる、いつでもへこみます。日常そのものが、すごく不条理な気がするんです。一寸先のことはわからないで生きている。でもそれを逆に、楽しめたらいいと思っている。そういう意味で、痛いことやつらいことを(舞台で)やったりするんです。一番の理想は、すごくつらいことでもみんなが笑えること。たとえば“母の死”を題材にしていても、笑ってもらっていい気がする。実は、つい最近、僕の父が亡くなったんです。そのときに改めて思ったのは、身内の死って、悲しいかそうではないかとは別のレベルで、泣けるか?というと泣けない、というときもある、ということ。やっぱり人は死ぬんだ、とほんとに思いました。『異邦人』に取り組むことで、幸せについて一番考えさせられました。その人にとって、幸せって何だろう、と考えながら作っていました。死んじゃったら無くなっちゃう、ということを父が亡くなって感じました。離れて住んでいたので、いないという実感がないんです。でも現実に“いない”。そういう時に、ただ父がいたことが自分にとって幸せだったのかもしれないな、と思うと、いずれ全てのものは無くなるのだとすれば、そこに在ること、居ること、それだけで“よいこと、幸せだ”と思えたらいいなぁと感じました。舞台では、たとえば小道具も、人も、とにかく出して、“そこにいたらいいよ、それをムルソーはきっと幸せだと言うよ”、と考えられるようになった。結果的に死刑で死んでゆくムルソーではありますが、“私は幸せでした”、そして“今も幸せだ”と言っている。カミュの作品で、そういう幸せを感じさせてもらった。元気出して、と言うほど上からものを言える立場ではないですが、ちょっとでも、自分がここにいればとりあえず幸せって思えればいいじゃない、というのが見ている人に伝えられたらいいな、と思っています」
小野寺修二が『異邦人』と向き合い、作り出した不条理。それは確かに孤独や人とのつながりの喪失から生まれているところがある。だからと言って、果たして主人公ムルソーは本当に孤独で、さびしく、不幸せなのかというと、どうもそうではない。寂寞としているはずの不条理が、なぜかあたたかいおかしみを生んでいたりもする。その不条理が災厄に見えるか、あるいは福音だと感じられるか、その間を行ったり来たりするのかを、ぜひあなた自身の感覚で体験しにいってほしい。
演出:小野寺修二
原作:アルベール・カミュ著『異邦人』
日程:2010年10月7日(木)から13日(水)
会場:三軒茶屋 シアタートラム(詳細はこちら)
チケット:世田谷パブリックシアター 03-5432-1515(setagaya-pt.jp)
お問い合わせ:ハイウッド 03-3320-7217
カンパニーデラシネラ onoderan.jp
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