2010年11月25日 (木) 掲載
『アルターボーイズ』--神に仕える少年たちが歌と踊りのパフォーマンスを捧げるという個性的な設定のミュージカルが、オフブロードウェイで話題になっていることはここ日本にも伝わっていた。2005年から2010年にかけてのロングラン公演は、オフブロードウェイでは史上9番目という記録をうちたて、Outer Critics Circle Awardsのベスト・オフ・ブロードウェイ・ミュージカル賞をはじめ、Drama Desk Awardsでも出演者が数々の賞を受賞している。
『アルターボーイズ』は、アイドルのような若い男の子たちが歌って踊る姿を楽しめる、実に娯楽性に富んだ作品だ。だが、ミュージカルの本場、ニューヨークの批評家から高い評価を得た作品だけあり、それだけでは終わらない。アイロニーと批評性が隠された、“軟派”に見えて意外に“硬派”なミュージカルだ。
たとえばバック・ストリート・ボーイズなどの男性だけで結成される音楽グループを、英語ではボーイズ・グループ、ボーイズ・バンドと言うが、これは日本的感覚で言えば“男性アイドル・グループ”にあたる。『アルターボーイズ』という架空のボーイズ・グループ(日本的に言えば“アイドル”)が、世界ツアーを行い、日本版では日本ファイナル公演を行う、という設定で舞台は進行する。つまり、現代社会における“ボーイズ・グループ文化”、日本で言えば“アイドル文化”に対する一種のパロディであり、風刺でもある。それは、“キリスト教”というテーマにも通じている。マシュー、マーク、ルーク、フアンという4人のメンバーの名前は新・旧約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの福音書にちなんだもので、5人目のメンバーはユダヤ人であるアブラハムだ。ステージには、“ソウル・センサー”という装置が設置され、“迷える魂”をカウントしている。アルターボーイズたちは、観客の内にある“迷える魂”の数をコンサート終了時までに“ゼロ”にしなくてはならない。そのような高潔な目的を持って進行するファイナル・コンサートだが、次第に音楽ビジネスにおける利権をめぐる私利私欲があらわになり、アルターボーイズたちが経験してきた宗派、人種、セクシュアリティをめぐる差別体験や、貧困問題など語られてゆく。
キャッチーな歌と、アクロバティックなダンスを楽しめる作品であると同時に、移民や性的少数者など、現代アメリカ社会に特徴的な諸問題を扱うという繊細な側面を持つ『アルターボーイズ』。これを日本版として翻訳し、上演するのはかなり困難なことなのではないか、と思うかもしれない。だが、日本語のセリフも歌詞も“翻訳もの”という印象を与えず、ごく自然だ。アメリカ合衆国特有の事情を日本の観客が理解できるようにさりげない工夫が随所でみられる。翻訳を担当したのは北丸雄二。新聞記者を経て、ニューヨークを拠点に活動するジャーナリストである一方、2003年英国ブッカー賞受賞のアラン・ホリングハーストのデビュー作、『スイミングプール・ライブラリー』などのジェンダーコンシャスな文学作品を日本に紹介してきた翻訳家としての顔も持つ。ミュージカルの翻訳は、『アルターボーイズ』のほかに『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』がある。北丸雄二に、『アルターボーイズ』を日本に紹介するにあたって意識したことを聞いた。
「この作品における移民、キリスト教、ジェンダーなどの社会性は“裏メッセージ”としてあるんです。読めば読むほどたくさん織り込まれていることがわかります。それはあえて直接的には表現せず、歌と踊りをメインで表現して、分かる人には分かればいい、というスタンスの作品なんです。ブロードウェイの面白いところは、どんなに底抜けにエンターテインメントに徹した作品であっても、すごく頭のいい創り方をしていることなんです。何重にも意味が込められていたり、深読みできるものでないと、ブロードウェイでは長続きしないんです。単純に楽しめて、深いことも考えることができるという二重底になっている。その意味では、日本版の方が原作よりそれに徹していると言えるかもしれません。特に踊りにおいては日本版はTETSUHARUさん、植木豪さん、森新吾さんという一流の振付家が担当していますし、キャストの技術もすばらしいです。移民などの社会的な問題については、日本人により意味が伝わるように微妙にニュアンスを変えています。たとえばフアンは移民の少年ですが、スペイン語訛りの英語を大阪弁に変えるなどの工夫をしています」
北丸雄二はゲイであることをカミングアウトしている。ジャーナリストとして、欧米のゲイ・ライツ運動を日本に伝えると同時に、翻訳者としてもゲイ・ムーブメントから生まれた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』などの作品を紹介してきてた。ジャーナリストとしての活動と、作家としての表現、さらには翻訳家としての彼の仕事には、すべて“マイノリティ”に対する北丸雄二のある哲学が共通の底流として存在する。
「1990年代にゲイ・ムーブメントのようなものが日本でも盛り上がりました。当時、いわゆる旬の話題だったので、ジャーナリストとしても伝えなくてはいけないと思って紹介していました。ゲイ雑誌でもコラムを持ち、世界でゲイ・ライツをめぐって何が起きているのかを日本に紹介してきました。90年代から2000年代は、『レント』や『ヘドウィグ』など、トランスジェンダーな、政治的なメッセージを持った作品が商業的にも成立するようになっていった時代です。人々がそういった情報を求め、それがひとつのマーケットを作った時代だった。80年代は、エイズ問題があって、ゲイ・カルチャーがビジネスとして成立し得るのかわからない時代だった。それが90年代に入って巻き返しが起き、アメリカでは、ゲイ・カルチャーを社会の中のひとつの力として育てていかないといけないという意識が高まっていきました。そうすれば、人が集まり、お金も生まれるし、という形でアメリカはひとつの時代を作っていったわけです。その流れの中で生まれていった作品を、原作者が創った意図と時代背景を正確に日本に伝えるためには、カミングアウトしていない人が訳しても、おそらくだめだと思うんです。みんなきっと、どこかで間違えちゃう。実際、ゲイ・ブームの中で出てきた作品が日本語に訳されたものをみて“ちがうな”と思ったことがありました。日本的な“ホモ、オカマ”に変えないと受け入れられない事情があったにしても“このやり方は無いだろう”と感じることが多々あったんです。そういうものを伝えるには、自分で書いていかないといけないな、とずっと思ってきました。私が訳してきた文学作品はたとえば『フロントランナー』は欧米で2000万部も売れた、ゲイ・ムーブメントの記念碑的な作品だし、『スイミングプール・ライブラリー』はイギリスで初めて商業的に成功したゲイを扱った小説です。そういうものは、他の人が伝えるよりも、私が伝えた方がいいだろうな、と思ったんです」
欧米のゲイ・ムーブメントの中で生まれた作品を日本に紹介する時、自身が「カミングアウトしていないと訳すことができない」と考えた北丸雄二の姿勢には強い使命感がある。淡々とロジカルに説明する北丸雄二だが、その背景には大きな勇気が必要であったことだろう。メディアで活発に発言するジャーナリストである北丸の姿は、きっと多くの人に勇気を与えている。“マイノリティ”たちの解放運動について様々なメディアで発信する活動を通じて、北丸が日本に伝えたいことの核を聞いた。
「日本の女性は本当に開放されていると思います。やはりミュージカルの観客層は日本では女性がメインなんです。日本の男たちは、すごく閉そく的な人生を送っているように思います。男たちが“会社・仕事”とは別なところでゆとりを持って、舞台やコンサートなどいろいろなものを楽しむようになったら、その時、日本は本当に成熟した社会になったと言えるのではないでしょうか。アメリカの歴史の主人公はWASP(White Anglo-saxon Protestant)つまりプロテスタントの白人男性だったわけです。その中で黒人解放があって、女性運動があって、移民による運動があって、それぞれが自分たちを“主語”で語り始め、続いてゲイたちが声を上げる。その時に、単独の主語であった“WASPプロテスタント系白人男性”が、それまで“目的語”で済ませていた移民たち、女性たち、黒人たち、ゲイたちが下克上をして、自分たちと対等になって、困ったり焦ったりしたのが80年代から90年代にかけての社会変革。それは今もまだ続いています。それが日本でもいずれ来るのかな、という気はしますけど、いつになるのかはわからない。そういったマイノリティの解放運動の核心は、彼らが解放されることももちろんあるんだけど、同時に、彼らを抑圧してきたメインストリームの“男たち”が解放されることにあるんです。独占的に主人公の地位にしがみついていた人たちが、いろんな人たちがゆるやかに主人公としている中のひとりとして、解放されなくちゃいけないんです。だから、マイノリティの解放運動は、実はマジョリティをもっと楽にしてあげる解放運動だって考えていないと、マイノリティのためだけの運動になっちゃう。マイノリティを“起爆剤”にして社会全体が解放され、“優しくなる”ための運動なんです。だって黒人奴隷を使っていた人たちが、いつかその黒人たちと一緒にコーヒーを飲む、家に閉じ込めてきた男たちが、その女性たちと一緒になって社会を築いていくっていうのは、これは“優しい社会”だと思う。ゲイたちとか、性的少数者が普通に生きられるのは、やっぱり“優しい社会”です」
『アルターボーイズ』のコンサートが進行している間に、“迷える魂”をカウントするソウルセンサーの数字は少しずつ減ってゆく。これは宗教の形を借りて、神によって救済されるという形式を取っているが、それは実は「自分の中で救済されてゆくこと」だと北丸は感じている。この『アルターボーイズ』における“優しさ”による“救済”こそ、今の日本社会に向けて発したいメッセージだという。
「日本では、いじめられている子供たちがたくさん命を落としていっています。アメリカでも、ゲイであることによっていじめられて自殺する若者が相次いでいます。このミュージカルは面白おかしいアルターボーイズたちのお話だけれど、ちょっと注意深く見てみると、はみ出し者たちの悩みが全部入っている。でも、最終的には、どこもはみ出していない子が、はみ出し者たちによって救われる物語なんです。それを観客に感じてもらいたい。いじめられている子がいたら、これから大人になって、母親になって、はみ出している子たちに対する見方を変えて、優しい大人たちになってほしいと思うんです」
北丸雄二の話を聞いていると、今の日本社会が抱えている諸問題の根本的な原因はもしかすると“優しさ”の不足にあるのではないかと思えてくる。社会に蔓延する“いじわる”は、ひいては私たち一人一人を不幸せにするのではないだろうか。政治でも経済でも、日本全体が方向性を失っているように感じられる不安をふきとばすために必要な“強さ”をはみ出し者を“排除”することと履き違えることは、長い目で見れば決して得策ではない。“優しさ”の大切さを訴えると、なんとなく軟弱な人間に思われるのがカッコ悪いことのように感じられるのかもしれない。だが、社会の底力となり、器を大きくしてくれる“優しさ”のパワーを再評価することこそ、日本がより幸せな場所になることへの正しい道のりだと『アルターボーイズ』はうったえている。
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