もうひとつの『パッチギ!』

羽原大介が、庶民・大衆に向けた、庶民・大衆の演劇『祖国へ』

もうひとつの『パッチギ!』

『パッチギ!』、『フラガール』、『ゲロッパ』という、近年の日本映画の中でもひときわ個性的な魅力を放つヒット作の脚本は、すべて羽原大介という脚本家が手がけている。そう聞くと、なんとなく納得する人は多いのではないだろうか。ちょっと過激にナンセンスユーモアが織り込まれ、突拍子も無い設定が出てきたりするのに、ぐいぐいとストーリーに引き込まれ、「頑張れ!」と応援したくなったり、「ふざけるな!」と怒りを覚えたり、「やりきれないよ」と涙させられる作品たち。一言でいえば、観客を引き込んでゆく力に富んだ名脚本家だ。そのストーリーテリングの才能を評価され、羽原大介は『パッチギ!』で2004年に日本アカデミー賞優秀脚本賞、『フラガール』で2006年に最優秀脚本賞を受賞している。羽原は1964年生まれ、日本大学芸術学部を卒業し、大手芸能プロダクションのマネージャーを勤めた後、つかこうへいに師事し、シナリオライターとなる。以来、映画に限らず、アニメ、舞台、テレビドラマと多岐にわたってストーリーを提供してきた。その羽原大介は、2001年より劇団『昭和芸能舎』を立ち上げ、自身が脚本・演出を担当し、定期的に公演を行ってきている。

昭和芸能舎の最新作『祖国へ』は、1968年、東京下町のとある消防団を舞台に、様々な人生が交錯してゆく。家業である大工を継ぐのか、進学するのかで迷い、揺れる青年。九州の炭鉱町から東京へ出てきて、一生懸命働いて、“普通の幸せ”を目指して頑張っている在日朝鮮人の青年。彼を中心として、“もうひとつの『パッチギ!』”が展開されてゆく。着の身着のままで大陸から引き上げてきた大工の棟梁の、荒々しい気性の中に秘められた子供たちへの愛。戦争を経験した日本人と朝鮮半島の人々の経験が、リアルに胸に迫ってくる。戦争や民族問題もさることながら、それらを超えて、人として忘れてはいけない何かを切々と語りかけてくる、心にどかんと迫る直球のストーリーテリング。しかも、チケットの価格設定が驚きの前売り2500円という安さ。明らかに“赤字覚悟”の値段である。初日を終えた羽原大介に、今なぜこの『祖国へ』という作品なのかを聞いた。

「前に『パッチギ』という映画を書かせてもらったときに、それも同じ1968年が舞台なんですが、在日の不良高校生と日本人の普通の高校生という設定の話だったんです。その時いろいろ取材する中で、当時やれなかったことがあるんです。別に日本中不良だらけだったワケでもなくて(笑)、今日観てもらったように、学生運動もすごく盛んだった時代です。純粋に日本を良い国にしようと思っている日本の学生もいたり、帰国に思い悩む在日朝鮮人もいるっていう背景もあったんで、また別の設定で、『パッチギ!』の話をやり直してみたい、というのがあったんです」


『祖国へ』で一番描きたかったものは何かを問うと、それは「なぜ劇団を続けるのか」という問題とイコールだ、と羽原は語る。確かに、日本アカデミー賞に輝いた作品をはじめ、舞台でもテレビでも映画でも引っ張りだこの人気脚本家である羽原大介のことだから、大型商業作品だけをやっていれば当然ながら収入も多いはずだし、知名度も上がるだろう。その時間を割いてなぜ、手間のかかる、しかもほとんどの利益の出ない、手作りの“舞台”にこだわるのだろう。

「昭和芸能舎という演劇ユニットを10年間続けてきたんですが、これは仕事とは別だと自分では思っているんです。はっきり言ってお金にならないというか、むしろ赤字になったりすることもあるくらいで。“一番描きたいものは何か”と問われれば、それは、(劇団を)やり続けている理由、になると思うんです。“脚本家”という仕事って、企画者になることがすごく少ないんですよ。誰かが企画を立てたものを“こんな企画どう?”と振られる。『パッチギ!』の時もまさにそうでした。“在日朝鮮人と日本人の交流を描いた話どう?『イムジン河』という歌が放送禁止になっている年にやったらどうかな?”ともらった話だったんです。でもやっぱりひとつくらいは、自分が企画者になれる“自分発信の場”を持っていたいということが、このお金にならないことを細々と続けている理由なんです」

“脚本家”というと、その作品のすべてを任された“作家”というイメージが一般には強いかもしれないが、大規模な作品になればなるほど“プロジェクト”色が強まり、当然ながらその企画全体の意図に沿う形のストーリー、多くの関係者の意見を反映した形の脚本が求められることになる。ましてや、羽原のようにこれまで商業的に成功した作品の脚本を手がけている売れっ子脚本家であれば、これは推測だが、“大手”の仕事をやればやるほど、すこし窮屈になってゆくという側面があるのかもしれない。もちろん、たくさんのスポンサーが付いた、大規模な作品であればあるほど、よりたくさんの人の目に触れるわけだから、その中に自身の伝えたいエッセンスを浸透させて行くことは、やりがいのあることだし、羽原大介のような人物がそういった作品に関わってゆくことは、日本のエンターテインメント全体にとって必要なことだと言えよう。だが、“自分発信の場”だからこそできる持てる視点がある。その視点には、ギリギリまでチケットを安価に抑えていることも関係している。

「どんな芝居を目指しているかというと、基本的に、世の中の平均よりちょっと下の目線から社会を見て、底辺の人とか、縁の下の力持ちとかが、主人公、登場人物になることが多いんです。またそういう人たちに観に来てもらって、“今日もしんどかったけど明日も頑張って働くか”とか“明日はきっといいことあるかな”って思ってもらえるような作品が作れたらな、というのを常々思っています。やっぱりチケットを1万円やそれ以上にすると、このご時世にお芝居にそれだけのお金を出せる人って限られてくると思うんです。それだとブルジョワに向けたブルジョワのものになってしまう。庶民・大衆に向けた、庶民・大衆の演劇をやり続けていきたいというのがあるんで、相当頑張って安くしています。それを理解してくれているスタッフとキャストが集まっているんで、これで食っていける役者はひとりもいないんです。色んな事情で、途中で抜ける人や、途中で入ってくる人もいれば、10年一緒にやってくれてる仲間もいます。自分のホームは、ベースはどこなのか、というのをちゃんと持っていたいんです。(商業的な作品の)脚本家だと、(たとえばテレビ局の)出入りの業者になるってことだと思います。請われて、“こういうポジションでこういうことをやってくれない?”と言われるという仕事だと思うんです。でも仕事ではない何か、自分の生きている意味というとちょっとかっこよすぎるかもしれないけど、存在している意味みたいなものをアピールできる場所を持ち続けたいんです」

物語は、家族・恋人・友人・仲間など、様々な関係における絆、あるいは“愛”をテーマとしているが、羽原大介にとって演劇をやる意味は、その“テーマ性”よりも、観客に「元気になってもらう」ことの方にある。

「今回は3つのラブストーリーを縦線にやっています。“愛”というか……それは色々な人がどのように感じてもらってもいいんだろうけれど、なけなしのお金を払って観に来てくれた人が元気になる舞台にしたいんです。“こんな奴等も頑張ってるんだから、もうちょっと自分も頑張ってみようかな”とか、“一回諦めようと思ったけど、もうちょっと頑張ってみようかな”とか“会社辞めたくてしょうがないけど、もうちょっと続けてみようかな”、“仕事ないけど頑張って探してみようかな”でもいいんだけど、何か、観終わって、観る前よりちょっとでもポジティブになってもらえたら、もうそれで十分。後はどういう風に感想をもたれようが、“このテーマなんで、こんな風にあなたたちと共有しましょう”とか“こう思うのが正しいんです”みたいな押し付けがましいことはなるべくしたくない。どういう立場の人が観ても、在日の人、日本人、右翼の人、左翼の人、誰が観ても、その人それぞれ色んなことを今回の作品を観て感じるんだろうけれど、どうぞご自由に、という感じで。やっぱりどの人にも元気になってもらいたいんです、はい(笑)」


最初は度肝を抜かれる格好の男たちが登場して、一体どんな舞台になるのか一抹の不安を覚えるかもしれない。だが、そんな不安はすぐに雲散霧消するだろう。羽原大介が脚本を書く映画のような舞台を期待されるかもしれない。たしかに、その要素はある。だが、『祖国へ』は生の舞台。映画とはまったく別物だ。その意味では、もうひとつの『パッチギ!』と言えるかもしれない。どこかドキュメンタリーを観ているようだし、戦争体験者の話を直に聞いているような気もする。ボロボロになりながら必死で生き抜いてきた1968年の東京にいた人々の姿は、観る者にきっと何がしかを与えるはずだ。それは羽原大介の言うように、エールかもしれないし、学びかもしれないし、あるいは衝撃かもしれない。いずれにせよ、ハンカチを忘れずに観劇することをお薦めする。


『祖国へ』昭和芸能舎代十六特別公演の詳しい情報はこちら

テキスト 七尾藍佳
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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