インタビュー:小池ミモザ

モンテカルロ・バレエ団に所属するバレエダンサー

インタビュー:小池ミモザ

photo: Marie-Laure Briane

ヨーロッパの名高いバレエ団のひとつ、モンテカルロ・バレエ団に所属するバレエダンサー、小池ミモザ。176センチと長身の彼女は、日本では背が高過ぎて踊れなかったというが、15歳で単身渡仏したのち、バレエ団史上最年少の22歳でソリストとなり、現在はプリンシパルとして活躍している。日本ツアーのために来日中の小池に、日本人がヨーロッパで表現していくこと、そして、彼女が東日本大震災をどう受け止めたのか、話を聞いた。

― すごく綺麗に髪をのばしているんですね。

小池:モンテカルロ・バレエ団にいて、ミモザは長い黒髪で眉の上で前髪がそっているというのが、決まっちゃってるんですよね。ヨーロッパの人たちがイメージする日本人像なんでしょうね。振付家のジャン=クリストフ・マイヨーにとっても、そういうイメージがあるのは大切で、エトワールのベルニス・コピエテルスは髪が短くて、その横で踊る私は長い黒髪。だから、永遠にこの髪型ですね(笑)。

― 芸術監督で振付家のジャンクリストフマイヨーという方は、どんな方ですか?

小池:マイヨーは、本当に心が大きくて温かくて、笑うのがすごく好きな人です。バレエ界ではすごく有名な芸術監督と振付家で、ストーリーのある作品を手掛けることが多いです。ちょっとおもしろおかしく、だけどすごく心で感じられるものを作る人。

それから、バレエ団には48人のダンサーがいて、20カ国以上から集まっていますが、彼がすごいのは、グループをまとめる力があること。もちろん、厳しいときは厳しいけど、良い雰囲気を保てるディレクターなんですね。バレエ団を観に来てもらうと、すごく雰囲気の良いバレエ団だね、って言われます。やはり一緒に踊って、一緒に練習して働くのに、良い雰囲気の中で踊りをできるのは大切だし、外からもわかると思うんですよ。バランスの取り方がとても上手い人です。

私は、もう9年一緒に仕事をしていますが、やはり作品を一緒に作っていくとき、体で表現するコミュニケーションをとれることに喜びを感じますね。

― 20カ国以上のダンサーがいて、今は日本人の方も数人いらっしゃいますが、ミモザさんは長い間、唯一のアジア人ダンサーでしたよね。日本人であることは、ヨーロッパで踊るときに、ひとつの表現になりましたか?

小池:もちろんです。モンテカルロ・バレエ団では、アジア圏からひとりぼっちの時期が長かったですが、日本人であることを誇りに思っているし、日本人であるからこそ、人と違う踊りができると思っています。 ダンスはヨーロッパのものですが、日本人がそのテクニックを使って踊るだけではダメだと思います。日本人ならではの繊細さを、どう伸ばして、自分のキャラクターにしていくのかを良く考えています。

そこをマイヨーも良くみてくれていて、そういう方向に私が行きたいことを良くわかってくれていて。私が日本人だということを舞台の上でも表せたら良いな、って思っています。

― なかなか今、日本人であることに誇りを持ったり、若い方が海外に行くことも少なくなりましたが、ミモザさんは15歳で単身渡仏していますよね。

小池:両親は、私がバレエをやりたいのを良くわかっていてくれて、本当に感謝しています。とにかく、日本では背が大きすぎて、踊れなかったんですよ。

私の場合は、ただダンスが踊りたい。踊れるのは海外だけ。じゃぁ、行かなきゃって。 どこのバレエ団に入りたくて、こういうダンサーになりたいというのもなくて、バレエをやりたくて、頑張っていたら、今の自分になったって感じですね。

もちろん、尊敬するダンサーはたくさんいますが、誰になりたいという目標は子どもの頃からいませんでした。絶対に誰にもなれないのはわかっていたし、私は、私なりのダンサーにならなきゃいけない。 でも、日本人で本当に良かった。やはり、ヨーロッパの中では、どうしたって違うものに見えるから、上手い具合に自分のキャラクターが探せたと思います。ブロンドにしたり、目を大きくしようとは思ったこともないですしね。

― 日本人の容姿がコンプレックスで、乗り越えるのが大変だという話も聞きますが、そういうのはなかったんですね。

小池:両親や、友だちに恵まれたんだと思います。 それから私は、日本では、「アナタはダンサーになれない」って言われ続けたんですよ。でも、フランスのバレエスクールの難関、1枠しかない外国人枠に受かった。もちろんすごく厳しかったけれど、初めてほめられたんですよ。

自分もダンスができる!って思いました。だから、日本でほめられなかったことは、良かったかもしれない。 語学はもちろん全部フランス語で最初は全然わかりませんでした。日本人がひとりいて、その子は11歳からその学校にいたからフランス語がペラペラだった。でも彼女に、「お願いだから日本語で話しかけないで」っ頼んだんです。「本当に問題があったら聞くけど、そうじゃなければフランス語で話しかけて」って。だから、ひたすらフランス人の話すフランス語を聞き続けて、2カ月経ったくらいで、ここから文章が始まってここで終わるんだっていう区切りがわかってきて、6カ月後に急にしゃべりだした。赤ちゃんが言葉を覚えるような感じでしたね。

― すごい精神力ですね。15歳の少女にそれができたのは本当にすごいですね。

小池:ミモザという名前も良かったですね。ちょうど今の時期はミモザの季節で、美しい黄色い花が満開になります。それを見ていると、自分はここにしっくりくるのかな、っていう気がしていました。

でも、今となっては絶対にやりたくないですね。プレゼンテーションの試験とかがあったときは、カタカナとローマ字をまぜて、自分なりに読めるようにしてひたすら記憶しました。結局最後には、教えてくれた友だちよりも成績が良くて、卒業するときも1番で、すみません、みたいな気持ちになりましたけどね(笑)。だけど本当にもう、同じことはやりたくないです(笑)。

photo: Marie-Laure Briane


― ミモザさんにとって、日本の良さはどういうところですか?

小池:繊細さとか、何もしないで何かを表現できるすごさ。歌舞伎とかで目線ひとつで表現しているのを観ると、本当に素晴らしいと思います。ヨーロッパでは、とにかく色んなジェスチャーをして伝える。そういうところで、何もしないで何かを伝える表現をできればおもしろいと思います。

私はやはり、ヨーロッパでどう日本の良さを出せるかばかりを思っています。最近は振付けもやるんですが、この日本公演が終わったあと、5月にやろうと思っている作品は、日本がテーマです。京都のきれいな石の庭にしろ、桜にせよ、日本食も、私にとっては芸術です。そういう部分をどうバレエで表現できるかをずっと追求しています。

― バレエというと、去年観た映画『ブラック・スワン』が強烈な印象だったんですが、ミモザさんもご覧になりましたか?

小池:私は2010年にエトワールの下のプリンシパルになって、そこまでいくのは大変でしたけど、映画みたいなものじゃないですよ(笑)。あの映画を観た時に、いやいやいや、こんなことをしていたら、バレエを続けられないよ、って(笑)。

人間って素晴らしいもので、すごく辛いことはだんだん忘れていきますよね。でも、ソリストになるまでは色々試されますし、もちろん簡単なことではありません。だけど、モンテカルロ・バレエ団は助け合える良い雰囲気があるし、振り返って、死ぬほど辛かったとは思わない。なんであっても、簡単に達成できることはなくて、バレエにはバレエの大変さがあるし、ほかの職業にも辛さがある。だけど、ダンスの寿命って短いんですよ。だから、ここでもう少し頑張っておけば良かったとは思いたくない。

でも、役に入るのに、あの映画ほど自分を見失うことはないですよ(笑)。やはり、プロフェッショナルとして経験を積んでいくと、対処する方法もわかってきます。がむしゃらになった若い時期ももちろんあるけど、羽は、はえてきません(笑)。

― モンテカルロ・バレエ団は3年ぶりの来日ですが、ミモザさん自身はどれくらいぶりの日本ですか?

小池:毎年夏休みには帰って来ていて、去年の夏も帰国しました。日本に戻ると、美味しい日本食を食べて、必ず歌舞伎を観るようにしています。時間がある時は京都に行ったりもしますね。

日本食は本当に好きで、モナコでも自炊したりしています。でも、やはり材料が違うから、ちょっとヨーロッパ風な日本食になっちゃいますね。味噌汁にありったけの野菜を入れるんですが、ジャガイモ、人参、コルジェット(ズッキーニのような野菜)、なす、キャベツって、和風ミネストローネですね。

バレエ団の皆も日本食が大好きで、たまにホームパーティをして、大きな鍋2つ分の味噌汁を作るんですが、あっと言う間になくなりますよ。だから、日本ツアーは1番人気ですし、震災の時も本当に家族のように心配してくれました。

― 今回のツアーは最終日が3月11日ですね。昨年の3月11日はどうしてらしたんですか?

小池:地震があったのは、モナコ時間の朝6時46分で、私はまだ寝ていました。起きたら携帯にメッセージがたくさん入っていました。ベルニスのメッセージが最初に入っていて、両親は大丈夫か?って。私は何が何だかわからなくて、電話してすぐにニュースを観て…本当にショックでした。その後、何時間も両親に電話がつながらなかったし、1週間以上ずっと眠れませんでした。日本から遠く離れているから、連絡がとれないし、本当に何もできない。しかも、イギリス、アメリカ、フランスって、あらゆるニュースが違うことを言うから、何が正しいかわからない。何を信じて良いかわからない精神的な辛さがありました。最終的には、両親にモナコに来て欲しいと懇願して、1カ月間いてもらいました。

とにかく、本当にショックでしたが、その後はやはり、これをどう乗り越えたら良いのか、私に何ができるのかを考えました。震災のためのガラもやりました。私にできるのは、踊りから何かを伝えること。だから、踊りを一生懸命やりましたし、日本の良さを伝える振付けを考えました。

― あの日を境に、それぞれの日本人が、いろんな立場で、ぐっと心に決めたことがありましたよね。

小池:生き残された中で何ができるかを人それぞれ考えたと思うし、皆が心配してくれて、その時、人間はひとりでは生きていけないと本当に思いました。家族を失くした方もたくさんいたけど、皆が力を合わせれば何かができると学んだし、そういうことを表現していきたいと思います。それから、未来のバレエ界を担う子どもたちに伝えることもしていきたいですね。

― 3月11日の公演には、特別セレモニーがありますね。

小池:もうひとりの男性プリンシパルが楽器を演奏して、私がソロを踊らせていただきます。震災があったからこそ、私の踊りも違う方向にいったと思うこともありますし、ショックで大変だったけど、それをばねにどう一緒に生きて、前に進めるかが大事だと思っています。

インタビュー 東谷彰子
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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