ロングインタビュー:スクエアプッシャー 前編

ハードからソフトへ。楽器とテクノロジーの狭間に身を置き続けること

ロングインタビュー:スクエアプッシャー前編| ロングインタビュー:スクエアプッシャー後編


「つまり、手っ取り早いコンピューターって技術が存在する、その実情に対して、ほとんどもうゾッとさせられることがあるっていう。でも、それと同時に僕はテクノロジーの側面に興味をそそられずにいられないわけで」

彼の音の中にある皮肉めいたニュアンスは、こうした自己矛盾を俯瞰することからくるのだろうか。血の通った「フィジカルな表現」と、そうでないものの境を定義するのは、時代を追うごとに難しくなる。肉体的な手法によるテクノロジカルな表現もあるだろうし、100%テクノロジーでフィジカルな表現を実現するというのは、現代ではひとつ普遍的、宿命的な命題といえる。スクエアプッシャーは、テクノ黎明期だった20年以上前からそうしたジレンマと正面から対峙し、両極を行き来する激しいエネルギーの中で作品を産み出してきた。1996年の『Feed Me Weird Things』から新作『Damogen Furies』までで、アルバムとシングルを合わせて彼がリリースした作品の数は30作以上になる。そのディスコグラフィーは、トレンドから一定の距離を置いたところで、着実に、時には思いもしない方向に、歩みを進めてきた。絶え間なく湧き出るアイデアの源泉にあるのは、手の届かない、しかし確実に彼の頭の中で鳴っている、彼だけの理想のサウンドだ。今回は、期せずして1万字を超えるロングインタビューとなり、新作における彼の境地や、それに至る哲学、そして「レコードを売って生きていること」までを、丁寧に語ってくれた。

『Damogen Furies』はライブの文脈で聴かれるべきものだ


ー初めまして。まずは5月の来日公演を楽しみしています。

うんうん。

ー特に京都の森の中であなたのパフォーマンスが見ることができるのは

ああ、そうなんだ?

ー『The Star Festival』という、森の中で開催されるフェスなんです。

おー、そりゃグレイトだ。

ーどのようなライブになるのか想像がつかなくて楽しみです。

(笑)森かぁ、アメイジング!

ー今回も視覚的な演出を行うのでしょうか。

うん、やるよ。新作の音楽向けに特別にデザインした、そういうヴィジュアルプレゼンテーションを用意してる。

通訳:そのライブですが、実は私は先だってロンドン公演を見せていただいたんですけど、あれらのビデオ/視覚要素はあなた自身がコントロールしているんですか?それとも別にビデオアーティストがいるのでしょうか。

基本的にどういうセットアップなのかと言えば、僕がステージで生み出す音楽とビデオイメージを作り出す機材とを同期させてあるんだよ。だから、その場で生まれる音楽、生で演奏される音楽そのものがイメージにも影響を与える、と。というわけで、ライブの場における音楽面での出来事と視覚面で起きることとの間には繫がりがあるんだよ。そう……うん、僕が音楽面でやることが映写されるイメージに大きく作用するってことだし、そうだね、その意味では「コントロールしている」ってことになるんだろうね。


ー新作の『Damogen Furies』を前作『Ufabulum』と並べて聴くと、エレクトロニックサウンドに終始しているという点は共通していますが、全体的な作風としては対照的な印象を受けました。前作はメランコリックでドラマチックで、サウンド的にも同時代のクラブミュージックと呼応する部分がありましたが、今作は荒々しく皮肉めいていて、それでいてテンションの高い雰囲気で、サウンドはより原始的になっています。

ああ、なるほどね。

ーこの作風の変化について教えていただきたいのですが、今回の新作の制作期間中は、どのような生活を送っていましたか?

クハハハハッ!

ー例えばなにか習慣の変化や、食生活や性生活が影響を与えたことなどがあるのでしょうか。

(苦笑)参ったな〜、マジかい?そうか……だから、作風の変化が僕のアティテュードだったり、あるいは日常生活の変化と関係したものなのか?ってことだよね。だけどまあ、まず大雑把に答えさせてもらえば、その答えは「ノー」。これといった大きな変化は特になかったよ……っていうか、そもそもその質問に関しては「そこまで」ってことにさせてもらいたいけどね。ってのも自分の食生活だとかプライベートライフについて話すつもりは毛頭ないし。僕はインタビューの場でそういうことを語ったりしないし、んー、とにかくこう、「そういう話をするのは正しくないだろう」って思えるんだよ。 そうは言っても、自分から見て「これはデカいぞ」と思えるような、そういうシフトチェンジが自分の身の上に起きた時期だったとは思わないけどね。

ーなるほど。

ただ……これは自分がレコードをリリースするときによく起きるんだけど、その作品を振り返ってみて、特に発表された直後に多いんだけど、僕はその作品をもっともネガティヴに見つめ直すんだよね。要するに、そのレコードの持つ欠点だの失敗した面をすべてあげつらって考るっていう。で、『Ufabulum』を出したあとで自分のなかに残ったのが、「なにかが欠けている」って感覚でね。そのひとつとして、なんというか、自然さの感覚が欠けている気がしたんだよ。で、これはコンポーザーとしてではなく、あくまで僕が『Ufabulum』にいちリスナーとして接した際に抱いた感覚なんだけど、あの作品はかなり……非常に、非常に緻密にプランニングされたものという感じがしたし、かつサウンド面において、音の美意識という意味で一定のレベルの洗練を持つ作品だな、そう思えた。それもあって、自分はもっと生々しいサウンドを持つ、そういった音楽を追究することに熱心になったという。だけど、そこから、僕は「ライブで演奏される」という条件、根本的にはそれを志向するような音楽を作ることへと興味を変えていったわけだよね。で、『Ufabulum』はホームリスニング向けレコードとしての性質とライブ会場で聴く音楽、その中間のバランスを持つ作品と言っていいと思うんだ。対してこのレコードでの僕の意図、なによりも第1の焦点になるのは、これはライブ会場で聴かれるべき音楽、ライブの文脈で聴かれるべきものだ、ということで。というわけで、必然的にそのポイントが作品にも影響を及ぼすことになった、と。そのギアチェンジが、この作品の聞こえ方を大きく変化させることになったんだと思うな。

ー機材的にはなにかシステムの入れ替えがあったりということはありましたか?

ああ、そこは前作とがらっと変えたね。完全に違うセットアップやシステムを使った。『Ufabulum』は大きなミキシングコンソールを使って作ったし、シンセサイザーも『CS-80』のほか、ハードウェアシンセを色々と使った。それらのハードウェアシンセを使うのが、あの作品の音楽を書いていた時点では適している、僕にはそう思えたわけだ。ところが、このアルバム、『Damogen Furies』は、すべてをコンピューター上のソフトウェアセットアップで作った。全曲がこのソフトウェアシステムだけを使って作られているっていう。そのソフトウェアは僕自身が作ったもので……そうだね、その初期ヴァージョン、一部はかれこれ10年以上前から取り組んできたものだけど、このソフトウェアのみを使って丸々1枚レコードを作ったのは今回が初になるんだ。だから、作品をモノにする技術的な方法という意味で2枚の間には大きな違いがあるわけ。だけど、そうやって違いが生じたのもまた、『Damogen Furies』に集められたマテリアルというのは、去年僕が取り組んでいたもっと大きな音楽ピース群から引っ張ってきたものなんだよね。で、それらの音楽作品群はもともと「ライブで演奏される音楽」って文脈の下に作られたものだったし、その要請に対応する形で、レコーディングに用いたテクニックもまた、『Ufabulum』の時とは違い、よりライブの場に移し替えやすいものになった、と。というのも、このアルバムはライブをやるときとほぼ同じセットアップをスタジオの中に組んで、それでレコーディングしたからね。だから、これはどこでだって組める柔軟なセットアップということだし、それこそホテルの一室でもどこでも、自分の持って行きたいところへ運搬が可能なシステムなんだよ。結局のところはコンピューターという「箱」に入ったソフトウェアなんだし、いくつものハードウェアシンセ群を移動させるのとは違う。だから多くの面で、異なる意匠の下に、異なるセットアップで作られたレコードってことになるね。

ー今回のアルバムについては、恐らく主にアグレッシブなアプローチがみられたためだと思いますが、「これぞスクエアプッシャーだ」というような評判も上がっています。

ああ、うんうん。

ーあなた自身は、自分に基本形や原点のようなものがあると思いますか?あるとすれば、それはどのような形なのでしょうか。

(即座に)それは、ないに越したことはないね!ってのも、そういった「これぞスクエアプッシャーのサウンド」みたいな概念ってのは、僕からすれば、自分がもっとも苦手とする、音楽産業の持つひとつの性癖だ、という。それは、基本的にはそうやって複雑な面を持つひとりの人間、アーティストをある形や典型へ、「ブランド」へと凝縮しようって話なわけでさ。で、そのブランドというのは数個のセンテンスで手っ取り早く説明がつくような、しかもそのアーティストの代表的な数曲で代弁できるもの、と。そうした考え方というのは、僕にとっては生きていて変化していく人間に対してふさわしくない、そういうものに映る。たとえば品物としての性質がある程度一定なもの、マーガリンだのピーナツバターといったスーパーマーケットの棚に並んでる「商品」になら当てはめてもいい概念だろうけど、もっと複雑な「個人/人格」という存在にはふさわしくないよ。

で、そういった自らのブランド性だったり、あるいは「これが自分の典型的なサウンドだ」なんてことを真剣に受け止めているようなアーティストってのはみんな、ほんと、深刻な問題を抱えてると僕は思うね。というのも、それは人間という存在の持つ根源的な性向、すなわち発展や変化の逆をいくものだから。いや、どちらかと言えば、僕たち人間に備わったキャラクタ―というのは「変化」であって、「静止状態」ではないってことかな。だから、たとえ僕たちがじっと変わらずに静止状態を保とうとしたって、それは不可能なわけ。僕たちはいずれにせよ変化するんだし、刻々と歳をとっているのはもちろんのこと、自分の持つ考えにしたって、ほかからの影響を受けて日によって変わったりもする。で、僕からすれば、そうした様々な変化のプロセスと細かく波長を合わせながら活動すること、それがコンポーザーとしてのもっともヘルシーなあり方なんだよね。というわけで、なんらかの「これがスクエアプッシャーだ」みたいな概念、核になるスクエアプッシャーの原型みたいなものが存在するって考え方そのものが、今言ったようなこととは完全に相容れないものだ、と。 そうは言っても、まあ、仮に「クラシックなスクエアプッシャーのサウンド」ってものがあったとして、僕は最大限の努力を尽くしてそれを振り払おうとしてきたわけ。ただ、そうは言ってもやっぱり、僕にはそれを拭い去り切れてなかったんだろうね。僕自身はそういった「スクエアプッシャーらしいサウンド」みたいな考え方は大嫌いだし、そもそもそんなものが存在するとも信じちゃいないんだよ。ただ、人々ってのは……僕が思うもっともありがちなケースというのは、僕のキャリアの初期に生じたスクエアプッシャーのイメージ、そのいくつかが「スクエアプッシャーらしさ」ってものと呼応している、そういうことなんじゃないかと。キャリアの始まりの頃にやっていたことやそこで生まれたアイデアが、ブランド、あるいはそれを定義する原型として受け止められるってことだね。

ただ、忘れてもらっちゃ困るんだけど、僕が最初のアルバムをリリースしたのは20歳のときとはいえ、その時点までで僕は既にソングライティングを10年間やってきていたんだよ。要するに、アルバムデビュー以前の段階で僕はいくつもの変化をくぐってきたってことだし、1枚目のアルバムを作った頃にやっていたことというのも、そうした自分の遂げていた変化の形のひとつ、その顕われに過ぎないっていう。もちろんそこには当時の僕が関心を抱いていた事柄が表されているわけだし、僕の作るレコードってのはそういうもので、その時々で自分にとって大切だと思える物事を代弁するものなんだ。ただ、たとえどこかの時点で自分が関心を持っていたからといって、それらがその後も常に僕にとって重要な関心事であり続ける、そういうわけではいんだよ。いつかまたそれらが大事だと思える時がくる、そこに戻っていくってこともあれば、また逆にすっかり放棄してしまい、二度とそれらについてケアしたり考えることもない、なんてこともある。だから、うん、「スクエアプッシャーらしさ」みたいな概念ってのは、ほんと、聴き手やジャーナリストたち、音楽評論家たちの思いつき次第だっていう。ただし、それらの様々な概念に僕が共感できるかと言えば、それはまったくない。それらの概念と僕は繫がっちゃいないし、どうでもいい話だと思ってる。僕はステレオタイプに沿って自分の人生を生きちゃいないからね

僕のなかには、良いプレイヤーになるために人生を捧げる、みたいな部分がある

ー私は、あなたの創作の原点には、フィジカルな音楽への厚い信仰心と、自身のDTM向きで自己完結型の気質とのジレンマのなかでの葛藤が、そのまま独創的な作品を産み出している、ということがあると思っていて。

なるほどね。それは納得のいく考え方だし、とても知的な観察だと思う。ってのも、これまでも色んなインタビューで話してきたけど、僕はよく、ふたつの場所の間を振り子みたいに行き来しているような気がしていてね。そのひとつは楽器を演奏する際のテクニックや演奏能力に関わるエリアだし、もうひとつというのは……ほとんどもう、そのアンチテーゼと言ってもいいことで。だから、楽器を演奏するための努力を一切放棄するっていうのか、演奏を習得するために費やす時間や労力を傾ける、そういったすべてを捨て去って、その代わりにテクノロジーを通じて入手可能なあらゆる「近道」を使うっていう。で、僕はまあ、これはついさっき話したこと、自分は絶対にステレオタイプを作り出そうとはしないし、そうではなくて僕は常に前に進もうとする、その時その時で自分にとって意義があると思えることをやっていくだけだ、って話と矛盾するかもしれないよね。ただ、それでもこのふたつの方向性にまつわる様々な考えというのは、僕がやるあらゆること、その背後に横たわっているんだよ。

ーなるほど。

だからといって、それがステレオタイプな音へと繫がるのか?と言えば、それはまた別の話であって。要するに、僕のアイデアの基盤というか、そうでないとしても、自分がある音楽を形にする際の技術的な手法の発想の根本にそれらの2つがある、と。で、そのふたつの間の対話というのは、ごく大雑把に言えば「生のギターで作るか、あるいはコンピューターで作るか」ってことになるわけだけど、僕が思うに、その2つの世界の間には対立があるんだよね。っていうのも、優れたギター奏者になるためには、それこそ人生を捧げる必要がある。何年も時間をかけて練習を重ね、学び続けることで身体技能、演奏テクニックを発展させていくわけだよね。ところがその一方で、コンピューターを使えばこれといったトレーニングを受けなくたって済むし、素人でもすぐ音楽作りに取り組める。で、僕にはそれが……だから、僕のなかにはあるひとつの楽器をちゃんと演奏できるようになる、良いプレイヤーになるために自分の人生を捧げる、みたいな部分があるわけで、その意味ではそういう状況、つまり、手っ取り早いコンピューターって技術が存在する、その実情に対して、ほとんどもうゾッとさせられることがあるっていう。でも、それと同時に僕はテクノロジーの側面に興味をそそられずにいられないわけで。そのふたつがぶつかり合う闘いの場に身を置いて、さて、そこでどんなことが起きるのか見てみたいって思いがあるんだよね。だからある意味僕は、楽器の演奏家であること、それが今後も意義を持ち続けるのかどうかってことに興味があるんだろうね。

果たしてそれは、未来においても有効な音楽のひとつの勢力であり続けるんだろうか?それとも、いずれ無用の長物として廃れていく運命にあるのか?と。でまあ、この点については人それぞれに意見が分かれるだろうけど、僕はとにかく、リアルタイムでこのテーマを掘り下げていこうとしてるっていう。というのも、まさに今言ったような問いかけを発する、そういう音楽を僕はプロデュースしているわけだから。「我々は演奏技術を犠牲にしてまでテクノロジーによる近道の方を選ぶだろうか?」、あるいは「物事を楽にするために、我々はこの人間が培ってきたスペシャルな技能を捨て去ってしまうんだろうか?」、でまあ、今というのは昔と違って、音楽を作りたい!と思い立ったキッズの前に広がるチョイスの数々ってのは、20年前、いや、それこそ僕が音楽作りを始めた30年前に較べたら、本当に段違いなわけ。初めて音楽作りに取り組んだ頃、僕にはお金もなければ楽器に触る機会もないって具合で、だから最初のマイギターを買うお金を貯めるために、かなり必死に働いたんだよ。ところが今の若い子たちっていうのは、それこそコンピューターを手に入れたその日のうちに、大金をはたいて楽器を買うなんてこともなしに、非常に高度なスタジオソフトウェアを使って音楽作りをこなすようになるっていう。今、僕たちが日々経験しているシチュエーションってのはすごいスピードで変化しているわけだし、だから僕も、とにかく自分なりにそれらの変化を理解しようとしているだけなんだよ。それでも思うのは、もしも自分がそのどちらかを捨ててしまったら……たとえば生の楽器奏者の役に徹することにしてテクノロジーは一切忘れてしまう、あるいは逆に生楽器を排除してテクノロジーだけで音楽を作ることにする、そういう風にどちらか一方だけを選んでしまったら、この二律背反な状況に対して興味深い意見を発することができる、その自分に備わったユニークな能力を犠牲にすることになるんじゃないか、と。

ーそれで、あなたは、2008年の『Just a Souvenir』から2010年の『Shobaleader One: d'Demonstrator 』、2014年の『Music For Robots』では、架空や現実を問わずバンド形式の音楽を製作していましたが、前作と今作では再び純然なエレクトロニックミュージックに戻って来ました。これは、フィジカルな要素をより自在に取り込んだり、操れるようになったという自信や手応えが、あなたのなかに生まれたからなのでしょうか。

そうかもしれないね。でも、『Damogen Furies』にフィジカルな要素は一切ないんだよ。あれはもう、とにかくシークエンサーのステップ打ち込みで作っていったというか、あれほど肉体性からほど遠い作りもないだろうってもので。その意味では、ほぼ完全にバーチャルな作品と言えるね。ってのも一切演奏はなし、生の楽器演奏なんかもまったく使っていなくて。だから、僕が音楽を作る際に用いる技術的な手段という意味では、この作品は「楽器を演奏する」って方法の、最も対極に位置するものじゃないかな。とは言っても、僕がこの作品でやろうとしたことっていうのは、その質問の核心もそこなんだろうけど、自分が楽器を使ってその音楽を演奏するときのように音楽をプログラムするってことでね。だから僕は、自分がギターを弾くときみたいにできる限り闊達に、敏速に、かつ迷いなしに考えようとしたんだ。ってのも、ギターで即興演奏をやるときは一瞬で決断を下さないといけなくて。あれこれ考え込む余裕なんてないし、秒単位で瞬時に何をプレイするか決めていかなくちゃならないんだよ。で、エレクトロニックミュージックを作る際に、概して僕がそこに盛り込もうとするディテールの膨大な量を考えても、僕はパッ!パッ!と即断していかなくちゃいけないっていう。そうしないと、ひとつの音楽ピースを作るだけでも半年かかることになる。どっかり座り込んで「ああでもない、こうでもない……いやこうすべきか?」と熟考してしまって、アルバムを1枚完成させるのに何年もかかる、なんてことになりかねない。で、そうやって長い時間をかけたからといってより良い作品になるとは思わないし、むしろそうやって考え続けて製作プロセスが伸びると、やっていて楽しいなって感覚、あるいは自然に生まれたような感覚の一部を失うことになるんじゃないか、と。だから僕は、音楽をステップタイムで打ち込むというテクノロジー的な手法に生楽器でインプロ演奏をやるときと同じメンタリティを当てはめるという、それにほぼ近いことをやってみるのにとても興味があったわけだ。

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来日公演情報
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インタビュー 三木邦洋
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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