Still from the 'Between the Buttons' album shoot with The Rolling Stones. By Gered Mankowitz/MANKOWITZ.COM
2011年06月03日 (金) 掲載
Gered Mankowitz/Mankowitz.com
ジャレッド・マンコーウィッツのレンズを通して“見る”という事は、伝説のスター達の世界を覗き込む事でもある。1946年にロンドンに生まれ、かのピーター・セラーズに写真への興味を真剣に追求することを奨められ、カメラ・プレスのトム・ブラウに師事、そして下積み時代を過ごした。彼が、最初に自身のアトリエを築いたのは、ロンドンのメイソンズ・ヤードだった。近所には『スコッチ・オブ・セントジェームス』というナイトクラブがあった。当時、そこは、ビートルズ、ストーンズ、ザ・フーのメンバーなど有名で影響力のある人物が出入りする場所だった。1966年9月24日に、当時まだ注目され始めたばかりだったアメリカ人ミュージシャン、ジミ・ヘンドリックスが、イギリスデビューを飾った場所もここである。マンコーウィッツは、スウィンギング・ロンドンと言われたシーンのど真ん中、これ以上近寄れないというような環境にいたのである。
ミック・ジャガーのガールフレンドだったマリアンヌ・フェイスフルとの仕事が、必然的に彼を夢のステージへと導いた。1965~67年の間、彼はローリング・ストーンズのオフィシャルカメラマンとして、レコードジャケットを撮影し、アメリカで行われた大規模なツアーにも動向した。そんなマンコーウィッツのクラシックでレアな写真を集めた展覧会が、恵比寿のTRAUMARIS SPACEで7月3日(日)まで開催されている。我々は、“スートーンズ的な”質問をするために、彼の写真の授業(もちろん教えているのだ)の合間に、時間をもらった。
あなたはストーンズのオフィシャルカメラマンでした。色々な逸話があると思いますが、ストーンズとの仕事を振り返ってみて、今、一番頭に浮かぶ思い出はなんですか?
マンコーウィッツ:1965年の秋にあったストーンズのアメリカツアーで、ステージにあがって撮影をしたのは、素晴らしい体験だったと思います。『一人ぼっちの世界』(Get Off My Cloud)が、アメリカで1位になって、毎晩、オーディエンスの反応が凄かったよ。あの頃のステージにいられたというのは、一生忘れられない思い出だね。ニューヨークのホテルの部屋での熱狂ぶりも凄かったんだけど、それは、別の話ということで…。
撮影の方向性を共有するなどの理由で、ストーンズの音楽制作過程に居合わせたこともあるのですか?
マンコーウィッツ:彼らが制作している時は、よくレコーディングスタジオに出入りしていたから、どんな作品になるのかは分かっていた。ミキシングの時は、最初のプレスが上がってきて、試聴する時なんかは、アンドリュー・ルーグ・オールダムとも、一緒だったよ。そんな訳で、僕は彼らの音楽に常に触れていた、それは、どうバンドを撮影するか考えるときに、役に立ったよ。
何度も聞かれているかもしれませんが、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』のジャケット写真におけるビートルズの『ラバー・ソウル』からの影響はどの程度あるのでしょうか?
マンコーウィッツ:正直に言うが、その質問は今まで聞かれたことが無いと思う。『ラバー・ソウル』は、私が『ビトウィーン・ザ・バトンズ』のジャケット撮影をする1年ぐらい前にリリースされたんだ。リリース時は好きだった印象が残っているが、1966年11月には、既に“古い”と思われていた。『ビトウィーン・ザ・バトンズ』のため、ぼやけて、もうろうとしているようなヴィジュアルを思いついたとき、『ラバー・ソウル』は自分の意識にもなかったよ。『ラバー・ソウル』のジャケットをもう一度見たけど、似ているところは、少しもないと思うんだ。実際、『ラバー・ソウル』の奇妙な歪みは、実はロバート・フリーマンが最初に撮影したものを現像したとき、偶然起きたミスだったんだ。いや、実際はしらないけど、ロバートが何年か前に私にそう言ってたんだ。
ポール・マッカートニーが最近のインタビューで、ビートルズの曲の中でも“衝動があったから”というより“作業のひとつ”として書いた“仕事上の曲”もあると言っていました。しかし、それらも今では名曲になっています。そのように、単に、ギャラの為に撮影しただけなのに、いい作品として残っているように思える仕事はありますか?
マンコーウィッツ:プロのカメラマンなので、どの撮影も、“仕事上の写真”になると思います。それが、生活の為にしていることで、ギャラを貰うことはモチベーションだったよ。でも、まぁ、何か自分にとって大切なものが、仕事を通してやってくることもある。私にとって、ストーンズとの最初の撮影は特別に大事なものだった。その後、オファーをもらうために、アンドリューを納得させなければならなかったからね。できた写真がジャケットに使われるなんて知らされないで、撮影したこともある。もし、事前にジャケットに使われることを知っていたなら、それなりにもっとできたと思うよ。
1967年にジミ・ヘンドリックスと仕事をしたんだけど、そのとき彼は、ヒットを望んでいた。『Hey Joe』がまだリリースされる前だったかな。しかし、この仕事が私にとって重要な瞬間になると思わせるほど、彼はカリスマ性を持っていた。しかし、その後、彼が現象になるまで、有名になるとは誰も思わなかった。いろんな意味で、普段の撮影と変わらなかったんだよ。
最近、撮影したなかで、ストーズンのようになれそうな予感がするバンドはいますか?
マンコーウィッツ:No、いないね。
自分の作品以外で、撮影をやってみたかったと思えるジャケットはなんですか?3つあげてください。
マンコーウィッツ:ライ・クーダーの『紫の峡谷』、ボブ・ディランの『THE BASEMENT TAPES』、ビートルズの『ウィズ・ザ・ビートルズ』だね。
では最後に、あなたが撮影したもので、誇りに思っているジャケットはなんですか?3つあげてください。
マンコーウィッツ:ローリング・ストーンズの『アウト・オブ・アワ・ヘッズ』、ケイト・ブッシュの『ライオンハート』、ザ・ナイスの『少年易老学難成(The Nice Ars Longa Vita Brevis)』だ。
ありがとうございました。
ジャレッド・マンコーウィッツ展『「ローリング・ストーンズ1965-1967』は、恵比寿のTRAUMARIS SPACEにて、7月3日(日)まで開催。
Copyright © 2014 Time Out Tokyo
コメント