ヨーロッパ演劇界の異端児が語る

真正直に現実と向き合うニヒリストが伝える“愛”、『ヴァーサス』

ヨーロッパ演劇界の異端児が語る

ヨーロッパ演劇界の“異端児”と言われるロドリゴ・ガルシアが、日本で初めての公演を行う。現在46歳のガルシアは、故郷アルゼンチンを22歳の時に去り、スペインのマドリッドに移住して以来、映像と音楽と身体表現を組み合わせた独創的な作品を発表しつづけている。『ヴァーサス』には、これと言ったストーリーは無い。俳優の身体が舞台の上に散乱した本の上を這い、パンクロックが鳴り響いたかと思うと、フラメンコ歌手が登場して叙情的な歌声を響かせる。次から次へと無秩序にシーンが展開される。ロドリゴ・ガルシアは、何よりも決められた枠組みにはめられるのを嫌う芸術家だが、ところどころに挿入されるテキストから伝わってくるのは、現代消費社会に向けられる“挑戦”。その挑戦はしかし、まったくもって無力であり、自分は現実に対して悲観主義者であることを繰り返し強調する。それでもガルシアが作品を創り続けるのは演劇という芸術が提供し得る“詩的瞬間”への強い信念があるからだ。それは、作品のテーマとして定義できるものでは無い、とガルシアは語る。

「私はテーマをあらかじめ設定して作品を創ることをしたことはありません。脚本を書くことはないんです。まず、一緒にやる“人物”からはじめます。この『ヴァーサス』に関しては音楽が重要なので、一方ではパンクロック、もう一方ではフラメンコ歌手が出てきて、俳優とミュージシャンが共演するので、舞台の上で彼らとインスピレーションを大事にしながら作っていきます。アイデアから発展させて、様々なシーンをパズルのように組み合わせていきます。俳優の身体の動き、テキストの文学的要素と音楽が合わさって作品になります。テーマは無いのですが、言及されることが多いのが“愛”ですね。果たして愛は存在するのか、あるいは愛なんて虚構なのか。人類はお互いを信じ、愛し合うことが、個人的なだけでなく、共同体において可能なのか、そして共に生きることの難しさなども語られます。大衆が何かを共有できる、あるいは通じ合える瞬間が本当にあるのかどうかというと、究極的に人間は孤独だと思っています。個人的に問題を抱えたときは誰だってひとりです。でも同時に、すばらしい喜びを覚えたときも、それはあなたひとりのものだということなんです」

人と人が通じ合うことなど無い、と言い切ることができるロドリゴ・ガルシアは、“自己”に対する確固たる信頼と、そして強さがある。それは、旧態依然とした階級社会のアルゼンチンの貧困層に生まれ育ち、まわりにアーティストなどひとりもいないような環境から飛び出し、自分の力で人生を切り拓いてきたという彼の生き方に由来するものなのかもしれない。作品中にもブエノスアイレスの若者が、自分がおかれた貧困について語るシーンが出てくる。ガルシアは富める者と貧しい者の間の格差が広がる現代社会のあり方について強い無力感を抱いているが、一方で貧困をめぐる経済的諸問題に対し、これまでの創作活動の中で一貫して取り組んできた。無力感を抱きつつも、ガルシアを表現へと突き動かすものは何なのだろうか。

「貧困は、これまでも常に私の作品で取り扱ってきました。というのも私自身が貧しい社会と恵まれた社会、2つの社会を経験しているからです。22歳までアルゼンチンで育ちましたが、とても貧しいコミュニティに生まれました。そしてヨーロッパに移住し、かつてと比べるとすばらしい、自分にはあまりあるほどの生活を享受しています。両者の間にある落差は、暴力的と言っていいほどの大きなものです。格差という経済的な問題をどのように自分の作品で扱うべきかは、悩んできました。これまでは政治的な色合いの濃い作品を創ってきたのですが、いま私はその手法に疑問を感じ始めています。なぜなら、みんなニュースや新聞を通じて、経済や政治の情報をすでに知っているので、演劇において新たな情報を発信したり、状況を変えることなんてできないからです。だから私は、より詩的なアプローチをしないといけないのではないか、政治的なものと詩的なもののバランスを取るのが大事なのではないか、と考えています。今の社会は、企業の論理を中心に回っています。私たちは民主主義の中で政治家を選ぶことによって社会の意思決定に関わっていることになっていますが、実際そんなのは虚妄です。すべては経済のロジックで決められているのです。この点に関して私は悲観主義者です。でも、このどうしようもなく腐った世界の中で演劇は唯一楽観的になれる場所ではないでしょうか。劇場では詩的な瞬間を人々が分かち合えることができるからです。社会には助け合いと愛が欠けているのと同時に、精神的自由と、そして“詩”が欠けているのです。芸術家は社会に向けて、物資的なものとは違う、別の方法で自由になる生き方、視点、方法を伝える存在だと思うのです」

自由になるための別の手段とは、彼にとっては“詩”であり、そして文学だった。貧民外に育ち、まわりには本を読む少年など誰一人いなかったと言う。肉屋の息子として生まれ、誰もが肉屋を継ぐことを望んだ。芸術を志すことに誰もが反対した。そんな状況でも決して諦めることが無かったのは、表現せざるを得ないという強い情熱があったからだと言う。この世界の現実をロドリゴ・ガルシアはとてもシビアに捉える。それは、厳しい現実を知っているからだ。そして、その現実を打ち破ることができるのは芸術しか無いと考えている。

「『ヴァーサス』の中で、誰かに失望し、裏切られるたびに“死ぬ”ということを俳優が語ります。それは、人々が他者と“理解し合い、通じ合える”ことへの不毛な期待を抱いてしまうからです。結局私たちはエゴイストなんです。裏切られたり、陥れられたりするとがっかりしますが、でも実際のところ、それは悪いことではなくて、その人は自分自身の利益を大事にしているだけで自然のことなんですね。ただ、芸術というのは、その“個と個”を引き裂くどうしようもない孤独を突き破る手段です。芸術家はそのために努力するのです。ただ、それはとても繊細なものです。できるかどうか、どこにも保障はありません。演劇は、時代錯誤な芸術です。今の社会において、演劇なんてほとんど意味を持っていないとも言えるでしょう。その点から言えば、演劇をやるなんて馬鹿げたことなんです。演劇なんかではなく、インターネットで発信したり、映画を作ったほうが効率がいいでしょう。演劇は現代の芸術では無いと言ってもいいでしょう。でも、まったくもって前時代的だからこそ、演劇は強力な詩的パワーを放つんです。どんどん情報化され、大量消費が進む社会だからこそ、こんなに古ぼけた形式を保つ演劇はおもしろいんです」

自身のライフワークに対して、「現代の社会でまったく意味を持たない」と言い切ることができる人は、なかなかいない。だが、それは単なる悲観論ではない。精神的な強靭さが無ければ、現実をありのままに受け取ることはできない。『ヴァーサス』とはつまり、何かが何かに「相対すること」だ。“愛”に向き合い、“愛”など幻想ではないか、と問いかけつつも、“詩”によって人と人がつながりあえる瞬間を信じる含羞の人、ロドリゴ・ガルシアの創りだす世界は、実は真摯な愛にあふれている。


ロドリゴ・ガルシア


イベントの詳しい情報はこちら

テキスト 七尾藍佳
※掲載されている情報は公開当時のものです。

この記事へのつぶやき

コメント

Copyright © 2014 Time Out Tokyo