原爆戯曲『島』が描く“生”

原爆を超えて、“生”への飽くなきエネルギーを感じる

原爆戯曲『島』が描く“生”

『島』は、広島・呉軍港近くの島に住む人々の被爆体験を描いた演劇だ。この舞台は、日本だからこそ観られるものであり、かつ、日本で観ることに意味があるものだ。3時間以上にもわたる大作だが、演出、出演者の技量、全ての完成度が高く、ドラマとして観客を巻き込んでゆく力にあふれているので、長さを感じさせない。被爆体験がテーマと聞くと、構えてしまう人もいるかもしれない。確かに、原爆は常に舞台のなかに大きな暗い影を落としている。だが、ただ単純に反核のシュプレヒコールが唱えられる舞台ではない。抗いがたい運命に直面させられる人々の“生”へのエネルギーこそが、作者である堀田清美が真に描きたかったことであると伝わってくる。

主人公は、栗原学。成績優秀で高等工業学校に進学し、島の期待の星として将来を嘱望されていた青年だ。だが、20歳のとき、広島で被爆した。誰もが彼は死ぬだろうと思っていたほどのひどい火傷を負ったが、母親の献身的な看病の末に一命をとりとめ、島の中学の教師になる。島を出て、軍需産業を担うエリートとなるだろうと思われていた学にとって、穏やかであるが退屈な教師として過ごす日々には、ピカ=原爆によって失われてしまった明るい未来の喪失感がただよう。物語は原爆投下から6年後の設定で、放射能の影響による白血病を発症する者が出てくる。今でこそ白血病と原爆の因果関係ははっきりとしているが、きびしい情報統制がしかれていた当時の日本で、ましてや都会から離れた瀬戸内海の小さな島の人々にとって、治療法からその危険性にいたるまで、原爆に関する全ての情報が不足していた。

情報も得られず、適切な治療法もないなかで、“ピカ”を浴びた人に対する恐怖と不安感がふくらんでいく。そして、“被爆者差別”が生まれる。栗原学は、常にさっそうとし、生徒たちにも島の人にも愛され、一見何不自由なく暮らしているように思える。彼は島の人々に尊敬されているように見えるが、その眼差しには、同情と、不安感と、恐れがひそんでいる。「ピカさえ浴びなければよかったのに、おしいことをした」と、まるで彼の人生がもうそれで終わってしまったかのような言葉がささやかれる。“原爆”から生きて帰ったとしても、“ピカ”は執拗に人々を苦しめ続ける。愛する人と本来ならなんら問題なく結ばれたはずなのに、“ピカを浴びた”ということによって別れざるをえない。仕事も、結婚も、多くのものをあきらめざるをえないなかで、学が決してあきらめないことがある。それは“生きる”こと。皮膚がずるむけになった背中の刺すような痛みに負けそうになったとき、生きることへの意志を彼に与えたのは“島”という故郷の存在だった。島に落ちてゆく夕日の赤い陽の光を見ながら、主人公は、「くそ!生きてみせるぞ!」と拳を握り締めた。

オバマ大統領のプラハ宣言によって、核無き世界へと動き出したかに見える2010年の今、わたしたちは依然として“核の傘”の下にある。北朝鮮やイランをはじめ、核不拡散条約という枠組みでは、どうにも前へ進めない案件が数多くある。その状況下で『島』を観ると、これまでになかったリアリティを持って“核”が見えてくる。1945年8月6日、9日、あの日、広島と長崎で何がおきたのか。核に巻き込まれた人々は、その後、どう生きたのか。

しかしこの物語に、生をこれ以上ないほど暴力的に破壊する原子爆弾というものに対する“あきらめ”は無い。暴力をもってしても絶対消すことができないもの、それは人間を信じること、すなわち“ヒューマニズム”だ、と栗原学が宣言する。この暴力と恐怖に負けない、打ち勝ってみせるぞ、それが「生きてみせるぞ!」という決意のなかにある。ひたひたと忍び寄る原爆症の恐怖と隣り合わせで、そこかしこにしずめられた“魚雷”を処理するために漁師の命が失われてゆき、いつクビになるかもしれないのに進駐軍での働き口になんとか一縷ののぞみを託そうとする人々。故郷である島を出て行かないことには、どうしようもないという閉塞感。そのなかで、栗原学のしゅっとのびた背筋と、天に突き上げられた拳は、未来を託せるかもしれない、という一筋の希望の光を放つ。

栗原学を演じる清原達之は、この役の持つ力について、次のように語った。「生きている力、エネルギーですね。この舞台はマイナス、プラス含めてエネルギーがものすごく出ているんだと思います。死へのベクトルもありますが、それを超えて生きるんだ、という意志です。他の登場人物も含め、この島で生きていくのか、あるいは出て行くのか、職業も含めて自分が今何をすべきなのか、みんな思い悩みますが、一生懸命にどう生きていくか、を模索しています。そういう意味で生きていく力があふれる物語です。このお芝居は原爆反対、という一面的な見方だけで作られているものではないんですが、それでもやはり、“原爆で死ぬ”ということの不条理、人為的に、原子力を利用して、核融合を起こして、それを人の上に落とす行為そのものを、“それはどうなの?”と考えなくてはいけないんじゃないか、と思うんです。国を守る、といった大義名分はおいておいて、そういう“行為”ってなんなのか、ってことをこういう芝居をやっていると考えます。オバマ大統領も、いろいろな必要に迫られて、核なき世界ということを言われているのだとは思うけれど、そのことを宣言したことはいいことだとは思いますが、やっぱりまだまだこれからどうなっていくのか不透明ですし、問題の根っこはどこにあるんだろう、そういうことをあらためて考える機会になるのではないでしょうか。絶対に何かを与えられる芝居だと思っています。今、経済の問題もあり、生きにくい、不安定な世の中です。生きていくっていうことに対しての不安定さがかなりあると思いますが、そういう状態にある方々に対して、何かを与えられる舞台だと僕は思っています。だから、ぜひ観に来て、何かを受け取って帰っていただけたらと思います」

“島”を覆う暗い影。その影とは似て非なるものではあるが、わたしたちが生きる今の世界にも、暗い影がある。“原爆”という体験がどのようなものなのかは、書物を読んだり、映像で観たりすることである程度は学ぶことができる。だが、舞台というライブな空間だからこそ、伝わるものがある。その原爆を描いた舞台『島』が与え、伝えるものは、ペシミズムではなく、「人間を肯定する」という圧倒的にポジティブな、力強いメッセージだ。

青年劇場公演『島』

日程:2010年9月12日(日)まで
場所:新宿、紀伊国屋サザンシアター
作:堀田清美
演出:藤井ごう
料金:一般5000円、30歳以下3000円(※当日券は300円増し) チケット:03-3352-7200(青年劇場チケットサービス)

テキスト 七尾藍佳
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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