フィジカルシアターの魅力

生と死を体で表現する『空白に落ちた男』主演の首藤康之に聞く

フィジカルシアターの魅力

撮影:青木司

セリフがなく、ミュージカルでもなく、厳密に言えばダンスでもない。それが日本を代表する男性バレエダンサー、首藤康之が主演する舞台『空白に落ちた男』。果たして、そんな舞台が可能なのか、と思うかもしれないが、実際に観ればそんな懸念は吹き飛んでしまう。言葉のない、身体を中心としたパフォーマティブ・アーツを指す『フィジカルシアター』(直訳すると身体劇)という名称は、欧米では一般化しているが、まだ日本では耳なじみのない言葉だ。広くくくれば、この『空白に落ちた男』も『フィジカルシアター』と呼べるもの。だがこの作品は、世界の舞台で踊ってきた出演者の首藤康之をして「プロとして23年踊ってきているが、4ヶ月もかけてこれだけ精密に作り上げる、細かいパズルを1ピースずつ組み合わせてゆくような隙のない、新たな発見の連続となる舞台はこれまで他になかった」と言わしめる、今この日本でしか見ることのできない、唯一無二の『フィジカルシアター』なのだ。

作、演出を手がけ、言葉がなくても、言葉以上に饒舌に“人間ドラマ”を語ることを可能にしたのは、マイムをベースとしながら独自の舞台世界を作り上げてきた小野寺修二。アコーディオニストで作曲家のCobaが振付過程から参加したオリジナル楽曲は、エレクトロニカのようなダンサブルでテンポの良い音楽。そこに驚異的な精密さで、出演者の呼吸、視線、腕の上げ下げが一体化してゆく。しかも動くのは人間の肉体だけではない。ある瞬間に人間だったかと思うと、次の瞬間にダンサーは黒子になってイスや机を縦横無尽に動かす。それもまた恐るべき緻密な計算の上に成立する動きだ。稽古を見ていると、ときどき「あっ!」という声を上げそうになるほど、ひやっとする瞬間がある。積み上げられてゆく机とイスが1ミリでもずれれば、下に横たわるダンサーの身に危険が及ぶかもしれない、そんな息を呑む瞬間の連続。だが、動きはずれることなく、物体と肉体によるアクロバティックでリズミカルな動きが次から次へと繰り出されてゆく。

このダイナミズムを一層引き立てるのが、随所に差し込まれる“静”の空気感と“停止”。それらをすべて滞りなく表現するには、相当のテクニックと表現力が必要だ。『空白に落ちた男』に集ったのは世界が認める日本を代表するダンサーたちだ。モーリス・ベジャールやイリ・キリアン、マシュー・ボーンなど世界的な振付家に認められ、日本のバレエ界を牽引してきた首藤康之、ウィリアム・フォーサイスに愛される安藤洋子、そして人気絶頂のダンスカンパニー『コンドルズ』のメインダンサー藤田善宏など。これほどの踊り手を集めながらもしかし、『空白に落ちた男』ではいわゆる踊りの要素は決して多くはない。だが、実はこの点にこそ意味がある、と首藤康之は語る。

「この作品はマイムをベースとしていますが、それにとらわれない、小野寺さん独自のスタイルの無言劇です。言葉なしにストーリーを伝えていく、ダンスとマイム、そしてジェスチャーの間を行っているようなもの。もともと、僕はダンスがしたくて小野寺さんと一緒に仕事をしようと思ったのではないんです。僕が踊ってきたバレエは流動的な動きが求められるダンスですし、“止まる”ということ自体ダンスの世界ではあまり求められませんが、実はとても重要な要素なんです。ダンスでは、動きを止めて、目だけで、あるいは空気だけで演技するといったことがあまり許されない。何かしら踊りのテクニックを入れることによって演技につなげていきます。それが僕には残念で、踊ること以外でキャラクターを作っていくことが重要なのではと思っていたんです。そんな時に小野寺さんの舞台を観て、ジェスチャー、マイムは人間にとってとても自然な行為で、よりリアルだと感じた。ダンスというのは非現実的で、別世界をステージに作るものになりがち。でも僕は劇自体が好きで、観客の立場から観た時に何を見たいかと言われたら、より真実に近いものを見せられた時に一番どきっとするし、心が動くんですね。僕が舞台に立った時、より真実に近い表現方法は何かと考えたら、 今回のような表現法が一番自分に足りなかったもの、かつ求めていたものだったから、小野寺さんの舞台に参加することになったんです」

だが、正確なテクニックとすばらしい跳躍力など、テクニック面においても高く評価されてきた、言うならば誰よりも踊れるダンサー、首藤康之にとって、あえて“踊らない・動かない”ことで表現することは、大きなチャレンジだったのではないだろうか?

「非常に大きなチャレンジです。でも、この経験によって僕のダンスも変化するのでは、と期待したんです。やはり小野寺さんとしては(演出サイドとして)僕を“動かさない”というのはとても難しいことでしょうし、今回は再演になりますが、最初の時は小野寺さんの言うことがまったくできなかったんです。間の取り方ひとつとってもそうですが、机やイスを動かしたりする時、僕らダンサーはただの黒子に徹する。かと思ったら急に人に変わったりする。一瞬の間をおいただけでキャラクターの切り替えをするといったことなど、とても勉強になりましたし、前回そういった小野寺スタイルを学び、今回はより広げることができました」

“挑戦”に関しては、生の舞台では難しいと思われている映画的な表現方法を劇場空間で伝えようとしている点においても言える。

「映画はカットごとに目や空気感だけで表現しますが、それは舞台だとあまりやりません。舞台だと観客が遠いし、空間が広いので見えないからなんです。でも僕たちは、もしかしたら、体を動かさなくても、内面の動き、心情だけでキャラクターを変えることが可能なのではないかと考え、それを『空白に落ちた男』で追及しているんです。実は、舞台という生の場所では、観客は空気感の変化に敏感になりますから、よりリアルに伝わるということもあるんです」

言われてみると、能などの日本の伝統芸能は“止まる”ことによって空気に変化を起こし、感情を伝えることを極めてきた身体表現だ。そのような日本ならではの文化も影響を及ぼしているのだろうか?

「あります。僕たちは日本文化に生きている人間ですから。外国人がこの舞台をやったら表現はまったく変わるでしょう。止まって表現するというのは、僕らの精神の中にはあると思います。それを組み込みたい。特に、ダンサーは不安になると動きすぎてしまう。動きを止めたり、切ったりするのが苦手なんです。でも、逆に動きを制限されると、次に動いた時に爆発するような、より大きなものが得られるんです」

『空白に落ちた男』が不思議な魅力を放つのは、その動きの面白さだけではない。静と動の絶妙なバランスの中から、人間をめぐる深遠なテーマが立ち上ってくるところだ。生きている中で経験するすれ違いや偶然、それらによって私たちの人生は、いつ崩れるともしれないあやふやな均衡の上に成立していることを感じさせる。

「この作品で伝えたい大きなテーマは人間の記憶と、そして死です。この物語は、すごく不条理な世界に見えて、実はとてもリアルなことを表現している。結果として人生の中で選択できることは、その時その時、ひとつしかなくても、もしかしたら別の道もあり得たかもしれない、もしかしたら人生は変わっていたかもしれない。人生にはたくさんのレールが敷かれている。一本の道しか歩けないけれど、無数の可能性がある。そして生まれてきたからには最後には死がある。そこに行く着くまでにどう歩んできたか、回り道をしてきたか、生きてきたか、が重要です。だからこの作品にも死がある。この舞台が根源的に表現したいのはそこです。普段普通に生きているけれど、どきっとする瞬間は実は無数にあるということをリアルに表現している舞台なので、どの国に育った人であっても、十分に体感できる舞台です」

それぞれの分野で頂点を極めたダンサーたちが、それぞれの“踊り”のみならず“人生”のパズルをいったんばらばらにして組みなおすために集った舞台。観る者の“私”という存在の根幹を揺さぶり、突如として空白に埋め尽くされてしまったような瞬間を体感させるこの作品に『空白に落ちた男』というタイトルが付けられているその理由を、きっとあなたは知る。

(c)MITSUO

空白に落ちた男

日程:2010年7月24日(土)から2010年8月3日(火)
場所:パルコ劇場(地図などの詳細はこちら
料金:7350円、U-25チケット5250円
作・演出:小野寺修二
音楽:coba
出演:首藤康之、梶原暁子、藤田桃子、丸山和彰、小野寺修二

テキスト 七尾藍佳
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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