2009年09月28日 (月) 掲載
恐ろしいマスクやシルクのコスチューム、紋きり型の会話、複雑な振り付け、エキゾチックな楽器の小気味良い音色:これは、興味ある者を伝統的な日本の芸能のミステリアスな世界に招き入れるほんの僅かな要素だ。部外者には理解できないことが多いが、能や文楽、歌舞伎のような古代的な形態は、古典語を用い、日本人でも理解するのが難しい。しかしながら、美的基本要素だけでも鑑賞すべきところは多く、部族の戦いや武士の忠義、仇討ち、正義、任務と忠誠心の葛藤、片思いの恋愛など、多くのテーマが普遍的なものだ。さらに、英語のプログラム冊子や同時通訳も益々提供されるようになってきている。
アジア全般の他の伝統的な演劇に言えることだが、日本の演劇には舞踊や音楽、詩的物語を統合している。西洋の演劇が現実主義に専念していることに対比し、美や神話的なもの、儀式的なものに重きを置いている。もう1つの際立った特徴は、間であり、おそらく最もうまく言うとすれば、「意味慎重な沈黙」ということになる。単なる沈黙以上に、間は、音符や言葉を中断する空間であり、ドラマチックな瞬間のパワーを強めるために使われる。
日本の演劇に出かける体験はまた、西洋でのものと際立って異なっている。静かな畏敬の念や毛皮のコートを脱ぎ去ること: つまり、劇場に出かけるというのは、ここではお付き合いのお出かけだ。多くの人が午後に、例えば、銀座の歌舞伎座にお茶やお弁当、お菓子をバッグに詰めてやって来る。そして、上演中にむしゃむしゃと食べる。観衆は、演技の感想を述べたり、例えば、大場面で演技者の芸名で声をかけたりする。特にすばらしい場面では、自然に拍手が巻き起こるのが分る。
日本の人形劇は少なくとも11世紀にさかのぼり、現代の文楽は、19世紀初頭に大阪で組織された文楽座からその名を取っており、江戸時代(1600-1868)の都市部に住む庶民が発展させたものだ。
文楽で使用される操り人形は、人間の大きさの半分から3分の2の大きさで、操作にはしっかりした技と力が必要だ。どの人形も2人のアシスタントと1人の主たる操り人形師が操っている。操り人形師の達人になるには、10年間の足の操作に始まり、右腕や頭、まゆを操ることが許される10年間の前に、左腕に10年費やすことになる、というように長いプロセスがかかる。4つの主たる要素が文楽の演技を構成している: 操り人形自身、それがなす動き、役柄に合わせて声を変えながら、物語を詠唱し、登場人物毎にせりふを語る太夫の発声、3弦のリュートのような三味線のソロ伴奏。
歌舞伎は、京都の出雲大社の参拝者で、女性の仲間を率い、1603年加茂川の乾いた川床で演技をしていた阿国を起源にしていると言われている。歌舞伎は、「一風変わった」または「衝撃的」ということを意味しており、17世紀および18世紀の日本では、一気に最も人気のある演劇の形態となった。しかしながら、ステージ内外でのエンターテイナーの性的な行為への懸念があり、1629年に女性の演技者が禁止された。女性の役は、女形(女性役の専門家)に取って替わっており、型にはめた女性の美を表現している。現実主義の片鱗も無いため、役者の本当の年齢は無関係だ。つまり、75歳の男性が18歳の娘を表現していることに不似合いなところはどこにもない。
日本の全ての伝統的な芸能の中で、歌舞伎はおそらく最も刺激的なものだ。役者は、歌舞伎において最も重要な要素であり、舞台上で起こる全ては、優れた能力を見せる伝達手段だ。見えていないことを前提としていること象徴する黒衣装の舞台補助者である後見は、役者に小道具を手渡し、役者の重たい衣装やかつらを即座に調整し、長いせりふや静止している間に、椅子を持って来る。
ほとんどの歌舞伎のプログラムは、一所作事の舞踊や一つの世話物、時代物を呼び物にしている。時代物は江戸時代以前の日本が設定のドラマだ。それは豪華な衣装や、役者の顔のラインに沿って塗られた、隈取と呼ばれる色鮮やかな化粧を特長としている。
役者は、メロドラマ的な語り口を用いるが、時代物は操り人形劇に起源があるので、劇は役者が動きや顔の表情、ポーズで表現するが、物語の展開や配役の感情に関連した詠唱者の伴った演技も呼び物にしている。世話物は、江戸時代の日常生活の物語で、西洋のドラマの様式に近い。どの歌舞伎劇場も、メインの舞台から劇場の裏まで演技者が観衆を通り抜ける高い通路の花道を特徴としている。これは入口や出口に使われ、超自然的な登場人物が現れる落とし戸を含む。
日本最古のプロフェッショナルな演劇の形態である能は、14世紀の神道や仏教の宗教的な祭事にさかのぼり、教育と娯楽の両方に使われていた。能の演劇の儀式的な性質は、主役が被っている能面で強調されている。演劇は、カテゴリーわけされており、それぞれが異なる香り付けがされた正式の5つのコース料理に関連付けされる。神々への活発な祝賀舞踊の後に、戦士と亡霊の戦闘の演劇が続き、次に、女性についての叙情的な作品となり、その時、狂気のテーマとなり、そして最後に悪魔の演劇と続いていく。実演は、ほとんどが地味で、ゆったりとしており、意図的なものだ。演劇は、仏教に見られるこの世のはかなさや殺傷の罪、精神的な癒しを追求している。
グループリハーサルは無い: 演技前のミーティングがあるが、役者や演奏家は、上演前には一緒に合わせない。この自然な行為は、この種の演劇の魅力の1つである。狂言は、控えめに表現することで人間性の愚かさを示してくれる短く、ユーモアのある間奏である。また、能の作品で、喜劇的な安堵感が散りばめられているが、それは洗練された笑いを生み出すことを意図しており、バカ騒ぎのユーモアではない。
この文章はTime Out Tokyo Guide (2007年版)の英語原稿を翻訳・編集したものです。
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