タワーレコードについてあなたが知らなかった10のこと

タワーレコードの創業者ラッセル・ソロモンに聞いてみた。

タワーレコードについてあなたが知らなかった10のこと

特別に音楽に関心を持たない人でも、あの黄色いショッピングバッグや「NO MUSIC, NO LIFE」のフレーズがどこのものか知らない人は少ないだろう。タワーレコード――現在に至る音楽産業の重要な礎を築いた存在。そして例えば1960~70年代のサマー・オブ・ラブ、1990年代のインディーズブームや渋谷系カルチャーなどと補完関係にあったように、時代を飾るポップカルチャーと常に寄り添い続けている象徴的存在。

日本ではいまなお音楽文化を牽引し続けるタワーレコードの重要な歴史を収めたドキュメンタリー映画『All Things Must Pass: The Rise and Fall of Tower Records』が制作されている。本作の撮影に際し、タワーレコードの創業者ラッセル・ソロモンが来日した。御年89、音楽業界を見続けてきたゴッドファーザーは、自らの成し遂げた功績と歴史をどのように振り返るのか。我々の取材に対して彼は、噂通り、少年のように瑞々しい感性で答えてくれた。


1. タワーレコードはドラッグストアの一角からはじまった。

ここ日本では現在も数多くの店舗を構えるタワレコだが、その長い歴史をさかのぼるとドラッグストアにたどり着く。1941年、カリフォルニア州サクラメント。この地に開業していた映画館、タワーシアターのなかで、ある人物がタワードラッグというドラッグストアを経営していた。その人物を父に持つ16歳の少年は、店でレコードを売ることを思いつく。少年の考案した商売は成果を上げ、後にレコード店となる。店名はタワーシアターやタワードラッグにちなんで「タワーレコード」と名付けられた。この少年こそラッセル・ソロモン、その人である。当時を振り返ってラッセルは言う。「私は父親の小売商で育ったようなものだよ。13歳の時から父のそばで商売を学んだんだからね。薬局を経営する父は私を薬剤師にさせたかったようだけど、私はなりたくなかった。だって薬よりレコードを売る方が楽しいじゃないか!(笑)」

2. タワーレコードのロゴはシェル石油のロゴの影響を受けている。

ラッセルは18歳まで薬局でレコードをさばき、2年の徴兵から復員した後にレコードの卸業を開始するも、1960年に倒産。しかしめげずに借金をしてレコードの小売業を立ち上げる。これがタワーレコードの前身である。現在でもお馴染みのあのロゴが考案されたのはこの頃、1960年代のこと。ロゴのデザインはシェル石油のロゴに影響を受けたという噂があるが、ラッセル曰く「色はそうだね。ただし『影響』ではなく正しくは『盗用』、パクったんだ(笑)。デザイナーはチャールズ・ニコルソン。私はデザインのことはよくわからないけど、遠くから見てすぐわかる色だからあれに決めた」。ちなみに日本のタワレコは黄色の色が少し違うらしい。

3. 成功の理由その①:サマー・オブ・ラブの余波。

商売が軌道に乗り始めたラッセルは1968年、サンフランシスコに出店する。200坪の敷地だった。「卸業の時にサンフランシスコに支店があって、街のことはわかっていた。この街で大きいことをやってみたくてね。ある日パーティに出かけて女の子と大騒ぎして酔いつぶれたんだ。翌日、二日酔いになりながらドライブインでぼんやり座って朝食を食べていたら、向かいのビルが賃貸募集していて。それで電話したらとても安かったので借りることにした」。店のつくり方はクラシックを専門とするニューヨークのレコード店サム・グッディズを参考にしたという。これがあらゆる商品を揃えるというメガストア方式の始まりとなる。「我々はポップミュージックでこれをやろうと思ったんだ。『サンフランシスコ中の音楽がここにある』という店をみんな欲していたからね」。というのも、当時のサンフランシスコには1967年をピークにしたサマー・オブ・ラブのムーブメントの余波が残っていた。「サマー・オブ・ラブの頃は、コンサートやショーが行われたフィルモアやアバロン・ボールルームという二つの場所、そしてサンフランシスコの街、すべてがひとつとなって爆発的なムーブメントが巻き起こっていたね。でも1968年もサンフランシスコ全体の音楽シーンやヘイトアシュベリーのシーンは根強く続いていたよ。我々はその波に乗ったわけだ」。

4. 成功の理由その②:ジャニス・ジョップリンの死。

ラッセルはサンフランシスコに続いて1970年、ロサンゼルスのサンセット・ブルバードに店を構える。ウイスキー・ア・ゴーゴーやロキシーが軒を連ねる、「この街で若者が集まる一番クールでステイタスのある場所でね、さまざまな音楽シーンの中心地だった」。しかしこの店のオープン直後、店からすぐ近くのところでジャニス・ジョップリンが死亡したというニュースが舞い込んだ。オーバードーズだったという。不幸なニュースにタワーレコードにも暗雲が立ち込めた……と思いきや、実際はむしろ逆。店は好転したという。「ちょうど彼女のアルバム『チープ・スリル』が発売されて、飛ぶように売れ始めたんだ。それで全国のニュースメディアが彼女の死とアルバムの売れ行きを報道するために現場からすぐ近くにあったタワーに来店し、カウンターで何十枚もの彼女のレコードを販売している様子を写したんだ。その結果タワーは全国的に知られることになり、飛び抜けた店になることができたというわけ。なんだか知らないけどおかげさまで全国規模のパブリシティをさせてもらったようなものだね」。

5. 成功の理由その③:奇抜なインストアイベント。

インストアイベントを積極的に展開したのもタワーレコードの功績だ。サンフランシスコの店では、マイケル・ジャクソンが在籍したジャクソン5のパフォーマンスを店の駐車場で行ったこともあるとか……。「それからボブ・ディランのバンド、ザ・バンドの発表した『ミュージックフロム・ビッグ・ピンク』のプロモーションで、シャンパンで酔わせたピンクの象を店内に転がり込ませたこともあったね(笑)。象はキャピトル・レコードの宣伝の変わった人たちが持ってきたんだけどね。それからグレイトフル・デッドの新譜のプロモーションでワーナーの人たちがやって来た時は、宣伝の人を棺に入れて店の中に持ち込んできたよ。こういうのはとても楽しい思い出だな」。

6. 成功の理由その④:店舗ごとの個性。

1970年代からタワーレコードは全米へと展開していく。「アメリカには音楽の街がある。だったら我々は音楽が生まれ育った街、聴衆のいる街に出店すればいい。カリフォルニアの次に出店したのはニューオーリンズ、シカゴ、アトランタ、そしてニューヨーク……すべて音楽が生まれる文化基盤のあるところだ。音楽に興味を持ち、音楽が好きで、必要とする聴衆とともにある。これはその後の音楽ビジネスを展開する上での基本だった」。こうして数々の店舗が展開されたわけだが、タワーレコードはチェーン店よろしくすべての店舗で取扱う商品も雰囲気も同じ、というわけでは決してなかった。それぞれの店舗が個性にあふれ、そして尊重されていたのも大きな特徴である。「私が思うに、店舗を運営する人たちが思うように店をつくるというのがタワーレコードにおけるマネージメントのコンセプトだ。これは1号店から行っているね。その当時から、ディスプレイやカテゴリ別のレイアウト、プロモーションなど基本的にやりたいことは何でもできた。これらのほとんどはその地域で行われたんだ」。店ごとの個性、ということでは冗談のようなこんな話もある。「少なくともアメリカのタワーレコードには制服がなかったので、どんな服を着ていようが気にしなかったね。どうして制服をつくらなかったかって?誰も着たがらなかったからだよ。ただしスタッフに靴を履かせるのは大事なことでね、それでも当時のハワイ店ではそれすら誰もしなかったけど」。

7. 創業者のお気に入りストアは渋谷店

全米に店舗を拡大したタワーレコードは海外にも進出。最盛期は北米、中南米、ヨーロッパ、東アジア、中東へ展開する。ここ日本に上陸したのは1980年のことだった(ちなみに日本第1号店は札幌に開店)。今回のドキュメンタリー映画の撮影のために久々の来日を果たしたラッセルは、都内および近郊のタワレコ店舗を訪れたという。「前回来日したのは2004年、タワーレコードの25周年記念の時だったけど、10年前にはなかった新しいビルや店がたくさんあるように感じるね。新しくリニューアルされたタワー渋谷店には完全に圧倒されたし、感銘を受けた。改装したことは本当に素晴らしい仕事だったと思うよ。ビルの上に新しい看板を設置したのもとても印象的だね。というのも、もともと設置していた看板があまり好きではなかったのでね(笑)。ともあれこれほど印象的な場所はニューヨークにも、パリやロンドンにも、世界中のどこにもないよ」。

8. 日本での成功の理由は、日本は一番CDを買う国だから。

最盛期は世界各国に展開したタワーレコードだが21世紀に入って業績が悪化。タワーレコードを運営していた米国法人MTS社は2006年に破産を申請、アメリカのタワーレコードは売却、清算され店舗における営業が廃止される。一方、タワーレコード株式会社が運営する日本のタワーレコードは米国法人との資本関係はなく、現在も音楽文化を牽引する存在のひとつであり続けている。一体なぜ、店舗としては日本のタワレコだけが生き残ったのだろうか?「まず日本にはまだCDを購入する人の市場が存在するのがひとつ目の理由。日本は世界でも一番CDを購入する国だろうね。ひとり当たりの購入数で言えば唯一ノルウェーを超えているよ。これは世界でもユニークだね。二つ目は、特に大きな店舗ではさまざまな商品を取り揃えていて、何でも手に入りやすいこと。リスニングステーションもあって店内の環境もとてもいい。少なくとも私が見る限りでは、現在のタワーレコードを運営する人たちはすべての商品を求めやすくすることに尽力しているね。顧客が商品を見たり触れたりできるように表に出しておくのは、とても大きなことだ」。

9. ファンが熱狂的すぎてタワレコの資料をアーカイブするプロジェクトが発足した。

アメリカ本土からタワーレコードが姿を消した後の2009年、ラッセルは写真やアートワークなどタワーレコードの歴史を伝える膨大な資料をサクラメントの施設に寄付する。この知らせを聞きつけた有志が立ち上がり、これらの資料を保存、展示するプロジェクト『The Tower Records Project』が発足した。「本当に驚くべきことだよね。音楽が理由なんだろうね。あらゆる音楽は人々の生活にとってとても重要なもの。我々が行ってきたのは、素敵な環境でそんな音楽を提供すること、ただそれだけだ。我々は音楽や音楽に関するあらゆる商品を提供する。人々はタワーレコードを音楽として認識し、また音楽を求めてタワーレコードを訪れることを若者の文化の一部として認識した。もちろんタワーレコードの名前をまだ知らない国はいくつかあるけど、『タワーレコード』の名前のもとにさまざまな国がひとつにつながっているんだ。アメリカ人はこの事実を知っておくべきだろうね」。

10. 将来、第二のタワーレコードが誕生する確率は……ない(だろう)。

このように音楽文化の発展の大きな一翼を担ったタワーレコード。もし音楽が不滅なら、第二のタワレコが現れてもおかしくないはず……なのだが、ラッセルの答えはノーだった。「少なくともアメリカではもう登場しないだろう。世界のほとんどの国でレコード業界が変化/進化したことがその主な理由だね。ダウンロードさえ低調なんだから。もちろんどこかに行って何かを目にすることは本当に楽しいし、現在でも活発にCDを集めたり聞いたりしているけど、子どもたちが集めたくなるような商品が再び登場し、さらにそれが生活の一部にならない限りはあり得ない。若者の想像力をつかまえるような新しい商品が音楽と結びついた上で登場しないのであれば、結びつける必要があるのは明らかだ。しかしもうそういうことは起こり得ないと私には思えるね」。やはりネットに取り残された産業は衰退するしかないのか?しかしラッセルはこうも付け加えている。「ただし、そうした状況はもう起こっているようにも見える。例えばLPへの興味がそれに当たるだろうね。ほかの国ではわからないけど、少なくともアメリカではそうした状況が、まだ規模は大きくなくとも拡大していると思う」。

※掲載されている情報は公開当時のものです。

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