2011年09月19日 (月) 掲載
ジャイルス・ピーターソンは、やはり“男”だった。電話でのインタビュー中にレコーダーが故障してしまった時も、アシッドジャズの生みの親でありレーベル界のドンでありながら、快く翌朝にやり直させてくれた。再度、電話した時には、「調子は良くなったかい?」と笑いながら電話口で話しかけてくれたほどだ。「今日はテープレコーダーはうまく動くのかい?」と語る彼の言葉からは、伝説のソウル系イベントCaister Weekenderで遊んでいた頃のちょっとマセたティーンエイジャーの面影を感じることができた。
ラジオDJへのインタビューで素晴らしい点は、とても簡潔に言葉を選んでくれることだ。48歳の誕生日を控えたジャイルス・ピーターソンは、すでに30年以上に渡りラジオの電波で遊び続けている。BBCラジオ1や東京のJ-WAVEでレギュラーを持つようになるまでには、ロンドンの海賊ラジオ放送『Radio Inivicta』に関わってきたこともあるという。そのとき彼はまだ17歳で、自分の持っていたトランスミッターと引き換えに、自分の番組を手に入れた。「あの時代が僕の成長期だった」と語るジャイルズ。「ちょうど、学習の過程だったんだよ」と。
彼は、ティーンエイジャーならではのタフなやり方で、いつしかソウル系では伝説のクラブナイト『ウィークエンダーズ』に参加するようになっていた。このイベントはソウル中心のセレクションで(今も変わらず)人気があり、リゾートタウンのノーフォークで開催されている。「まだ16歳、17歳ぐらいのときからよく通っていたんだけど、そのときは“行ってはいけない場所”という認識をもっていた」という。「僕はその場所にそっと忍び込んで、そこで繰り広げられている“大人”の世界に目を丸くしていたんだ。偉大な音楽を聴きながらダンスをし、様々な文化背景をもつ観客を眺めていた。そういったことも、僕の目を開かせるもうひとつの体験だったんだ」。
そういった体験は、彼の“目を”覚まさせると同時に、彼の“耳も”覚まさせた。ウィークエンダーで初めて聴いたジョン・コルトレーンのことは、よく覚えているという。そのときは、DJボブ・ジョーンズがジャズ・サックス奏者の名曲を紹介しているコーナーで、その中に『ジャイアント・ステップス』があった。今回、こうしてジャイルズにインタビューしている理由も、実はコルトレーンその人と関係がある。それは、今月、東京で開催されるスペシャル・イベント『J-WAVE WORLDWIDE Showcase 2011 ~Love Supreme~ 』で、ジャイルスが偉大なるサックスマンをトリビュートするからだ。このイベントはジャイルス・ピーターソンとFMラジオ局、J-WAVEが毎年開催している音楽イベントで、今年は、コルトレーンの生誕85周年を祝う。日本のジャズグループSOIL&”PIMP SESSIONSやMasa Sexte、そしてタップダンサーの熊谷和徳、さらにイギリス人プロデューサーSBTRKTらがラインアップされている。
ジャイルスは毎年このWORLDWIDE SHOWCASEをオーガナイズしており、それぞれが異なったテーマを持っている。「それは本当にエキサイティングは夜だよ。まるで、僕がJ-WAVEという巨大なラジオ局を通して自分の好きなレコードをドライブタイムにプレイさせてもらえている、この状況を祝うような、そんなものなのかもしれない」と語る。ジャイルス・ピーターソンは、J-WAVEで番組を持つようになり既に7年(「そんなに続くなんて信じられないよ」と彼が言うほど)。東京でも、音楽的に重要な役割を果たしている。
彼はこよなく愛する音楽を紹介する場としてラジオ番組を用いており、ジャズからSBTRKT、そしてそのとき流行りのプロデューサーや、ジェイムス・ブレイクのようなシンガーまで、幅広く紹介している。彼がこのインタビューで一貫して語っていたのは、今年は本当に新しい名曲が多くリリースされた年だったということ。あまりにも多かったので、昔のレコードを流す時間が減ったという。
しかし、新しい音源を聴くときにも古い名盤と同じような興奮を覚えるのだろうか?「ああ、そうだね。だけど、“おお!”って思う気持ちはちょっと違うね。今は昔より深く音楽業界に関わっているから、業界を動かすというか、影響力を持つようになった。きっと今は“ああ!この曲を流せるんだ!いいね!そうしたらきっと話題になるぞ”と言った考えが興奮させてくれるんだ。だけどそれが、16歳の時にクラブで初めてSlaveのJust a Touch of Loveを聴いたときに感じた気持ちや、TrusselのLove Injectionを聴いたときの感動と同じかどうかは分からない…。だって、そういった気持ちは一生消えないからね!」。
ジャイルスはラジオ以外でも、新しい音楽に貢献する方法を見つけていた。1980年代後期から、注目すべきアシッド・ジャズレーベルのA&Rとして関わり、90年代には自身のレーベル『Talkin' Loud』を始めて業界にその存在を強く指し示した。その後、少しのブランクを経た後、2006年には小さなインディーレーベル Brownswood Recordingsとともにカムバックを果たし、これまでホセ・ジェームズやSOIL& "PIMP" SESSIONS、そしてマーキュリー・プライズにノミネートされたGhostpoetなどを扱ってきている。
ジャイルスの東京でのイベントは、まあ言ってみれば、シンガポールやフランスのセテ島で開かれた世界的なフェスティバルに比べれば、ちょっとした前菜みたいなものかもしれない。今年の7月上旬に開催されたこのイベントは、ロックデュオの『The Pyramids』からコンゴ人によるカリンバ アンサンブルの『Konono No. 1』、そしてクラブ受けの良いエレクトリカ系プロデューサーのFlying LotusとJamie XXなど、ある意味とても雑食的な幅広いラインナップになっている。
「そのイベントは、同じ世界へのちょっとした入り口みたいなものを与えているんだ。ジャイルス・ピーターソンのイベントみたいなものに行く理由は、ジェイムス・ブレイクやThe Pyramids、ヒップホップとアフロビートのDJ リッチ・メデュナのあいだに共通するものを感じられるからなんだ。もちろん、他の人たちはそういったことを理解できないし、分からないと思うけど、フェスティバルが終わる頃になると、分かるようになっている」。
「これからも、人々が、彼らにとって何か特別なものの一部なんだと感じられるようにしていく必要があるんだ」と彼は続ける。そして、彼が育った音楽シーンと今のシーンを比較してこう語る。「昔、本当に素晴らしかったのは、まるで“秘密クラブ”のメンバーのように感じられたし、ほとんど誰もそれについて知る人はいなかったってこと。それは本当に“特別”なものだったし、それがとても重要だったんだ。エリートではなくエクスクルーシブ。それこそ、なにかをやっていてもいつも守っていきたい気持ちだし、そうしようとしてきている。つまり、ムーブメントに加わるということが、より強くしてくれるのだから」。
彼の言葉によると、レコードショップが死に絶えてしまったように、これからはダンスクラブのような地元のたまり場をどうやって守っていくかが重要な課題だと言う。その言葉は、そのまま別のジャイルス流の智慧へと繋がっていく。
「もしも僕が20歳や30歳のDJだったら、レギュラーのレジデンスDJということにこだわってきただろう。今はミュージシャン兼プロデューサーのスーパースターになりたいという強迫観念みたいなものを持っている若いDJやプロデューサーが多くて、彼らは大きな箱のゲストDJとして生計を立てたいと考えているらしい。彼ら自身のクラブに基礎を置いて活動するということではなく…。だけど、いつも最高のシーンというのは、小さなクラブから始まっているんだよ。ダブステップでもパンクミュージックでも、すべてがね」。
ジャイルス・ピーターソンは9月23日(金・祝)に恵比寿・リキッドルームで開催される ワールドワイド・ショーケース 2011に出演予定。その後、9月24日(土)には、代官山の Air10周年記念イベントに出演予定。
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