田尾創樹展『Bonnie The Dog

末っ子気質から生まれる“誰かを楽しませるため”の表現

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田尾創樹展『Bonnie The Dog』

田尾創樹 『Bonnie The Dog (2010) / Courtesy the artist and Take Ninagawa, Tokyo

「田尾さん、末っ子でしょう?」と訊いたら「え!?……はい、姉が3人います」と田尾創樹は笑顔で答えた。麻布十番のギャラリー、タケニナガワで開催されている田尾創樹『Bonnie The Dog』展のオープニングレセプションでの一幕である。

田尾創樹は、2008年にアーティストのソフィ・カルに選出されて『CHANEL:モバイル・アート』展に参加、国内でも注目されている若手の現代美術作家だ。『CHANEL~』では、街行く一般女性が実際に持ち歩いていたCHANELのバッグを中身ごとお金で買い取り、ペインティングなどと合わせてインスタレーションとして展示した。シャネル表参道店での展示も、軽やかで無邪気、しかし毒気のある魅力があった。これらは『おかめぷろ』なる架空のプロダクション会社のプロジェクトとして発表されたが、このほかにも『Kiss Boy』なるキャラクターなど、田尾は架空の組織や存在を通して作品を代弁させるという手法をとる。

本展は『Bonnie The Dog』という犬と飼い主一家の物語で、グッドオールドデイズな時代のアメリカのモノクロアニメを緩用したような連作から構成されている。例えば、童顔の主人公自身が実は工場で働いているという人物紹介や、庭にフンをした犬を咎める事件、父がファイトマネーに目がくらみ格闘技に出場した顛末、なかには“若い男のバイクに乗って失踪した母”という何の脈絡もないひとコマなど、一枚の作品に絵と文字で物語のワンシーンを描写、それがランダムに40枚以上展示されている(したがって物語は一本の筋が通らず、鑑賞の仕方に委ねられる)。極度に輪郭の丸いキャラクターや「BOKU NO MACHI NIWA UMI GA MIERU YO」(僕の街から海が見えるよ)などの台詞は、見ようによっては絵本のようでもある。キャッチーな人懐こさと若干の悪戯心が同居しており、描いた自分がおもしろがり、且つ観た人をおもしろがらせる、という天然で朗らかなサービス精神が旺盛なのだ。

そのなかで田尾は“作者”をメタ的に登場させている。唐突に外国人(恐らく似非アメリカ人)、だが胸にはハングル文字の刺繍がある。この人物が“作者”などとは説得力がないことこの上ない……という当然の突っ込みはさておき、「これでBonnie The Dogは終わり」と架空の作者に語らせるとおり、最後に結局犬は死んでしまうのだが、要するに田尾は展示ごとに自分を殺すことがある。ここで言う、作者や犬という架空の存在は田尾のオルターエゴ(同一人物内の別人格)というよりは、東浩紀以降の論者が述べるところの「“データベース”にアクセスした(自己内の)キャラ」だと考えたい。ただ、田尾の場合はそれが自身を取り巻く現在の社会環境ではなく、恐らく幼少期から培った原風景のワンシーンなのではないだろうか。それを逐一成仏させる様は、幼少期のコンプレックスの発露というよりも、子どもが誰かを楽しませるために次から次へとモノマネを繰り出しているように思えたのだ。冒頭に「末っ子?」と半ば断定的に質問したのはこのような理由からで、つまり末っ子は(特に姉のいる場合)、周囲の人間(必然的に年長者が多くなる)を楽しませるエンターテイナーであると同時に、大人たちがかまってくれないときにひとりで遊ぶのが上手で、加えてひとり遊びに自分で決着をつけなければならず(どこで遊びを終わりにするか自分で決めなければならない)、田尾はこの条件をすべて満たしているという確信があったのだ。

このようなある種の幼児性は、遅れてきたゼロ年代世代と言えなくもない。ただ田尾はそうして自己完結を繰り返すだけでなく、先に述べた『おかめぷろ』は複数の表現者と共同しながら現在も存続中であることを気に留めたい。やりたいことをすべて、ひとりではなく複数で連帯してやってしまおうとするのが、現在の作家のおもしろさなのだから。

田尾創樹 展『Bonnie The Dog』
場所:Take Ninagawa(地図など詳細はこちら
会期:2010年6月19日(土)まで

テキスト 岡澤浩太郎
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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