アントン・クスタース×都築響一『ODO YAKUZA TOKYO

ベルギー人写真家が捉えた歌舞伎町

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アントン・クスタース×都築響一『ODO YAKUZA TOKYO』

『ODO YAKUZA TOKYO』という写真集をご存知だろうか。ここで言う「ODO」とは「桜道」のこと。そして「YAKUZA」と「TOKYO」はもちろん……。これは、ベルギー人の若き写真家アントン・クスタースが、新宿歌舞伎町で活動する、ある組の日常を撮影した写真集なのだ。「YAKUZA」という、とりわけ外国人にとってはもっともミステリアスな日本文化の一側面に深く寄り添いながら、あくまで客観的にその姿を捉えることに成功した、きわめて稀な作品である。おそらく外国人が、ここまで日本の極道社会に入り込んだ例はこれまでなかったろうし、こんなふうに「YAKUZA」を捉えた日本人カメラマンも、ほとんどいなかったはずだ。


『ODO YAKUZA TOKYO』は、限定500部の初版が2011年6月にベルギーで発売され、口コミのみで1ヶ月足らずのうちに完売。同年11月に第2版が2000部作成されたが、それもすでに完売だという。そのアントン・クスタースは今年、ヒェンク(ベルギー)、シドニー、ローマ、そして11月には故郷に近いリエージュでYAKUZA写真展を開催。今回、リエージュでの展覧会が開催された美術学校のカフェテリアで、クスタース本人に話を聞く機会を得た。

美術学校(Academy of Fine Arts)での展覧会入り口


アントン・クスタース


アントン・クスタースは1974年生まれ。今年39歳だが、写真を始めたのは30代になってからという遅いスタートの写真家である。

ベルギー東部の要都リエージュ(サッカーファンには川島永嗣が所属するスタンダール・リエージュでおなじみ)から40キロほどのアサールト生まれ。父母の仕事関係で、ベルギーからサウジアラビア、オーストラリアと世界各地で暮らしてきた。幼い頃からさまざまな異文化にさらされてきた彼に、それは当然ながら大きな影響を及ぼすことになるのだが、政治学を専攻していたルーヴェンの大学を卒業したクスターズが選んだ道はウェブデザイン。数人でのささやかなスタートだったが、設立から1週間したところで起きたのが2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件――「いきなり大不況で、最悪のスタートでした(笑)」。

自ら立ち上げた会社の切り盛りで多忙を極めていたクスタースに、転機が訪れたのは2005年のことだった。アサールトの美術学校夜間部に入学し、「4年間の授業だったけど、3年ですっかり飽きてしまって、そのとき何気なく受講したワークショップが、僕の人生を180度変えたんです」。

リエージュ中心部にある廃駅をリノベートしたクラブ、「ル・カルデロン」のエントランス。会期中は、ここでも作品が展示された


エスカレーターを降りてラウンジへと続くスペースにもプリントを展示


マグナム所属の写真家として知られるカリフォルニアの写真家、デヴィッド・アラン・ハーヴィー(ナショナルジオグラフィックなどでの仕事のほか、世界各地で講義やワークショップを精力的に開催して若手の育成に尽力している)が、アサールトでワークショップを開き、2008年に参加したクスターズは、ハーヴィーの助言や励ましによって写真への情熱をかきたてられる。講師と生徒から友人になった2人は、同2008年に新しい写真発表のメディアとしてウェブ雑誌『burn magazine』を共同創刊。クスターズはそれまでのウェブデザイン会社経営を続けながら、次第に写真に費やす時間を増やしていった。

アントン・クスタースには、2000年から東京で暮らす弟マリックがいる。写真家になって初めての本格的なシリーズとなる『ODO YAKUZA TOKYO』は、2008年に弟を訪ねて東京へ遊びに来た時の小さな偶然がその端緒になった――。


「東京に来ても、何を撮ったらいいのかわからずにいた時、弟の行きつけの歌舞伎町のバーで2人してビールを飲んでたんです。そしたらすごく仕立てのいいスーツをきちっと着こなした男性がふらっと入ってきて、マスターやお客さんと気軽に言葉を交わして、サッと出ていったんですね。それで、その人のことをマスターに聞いたら、このあたりで幹部のヤクザだって教えてくれて。自分がなんとなく持っていたヤクザのイメージとあまりに違っていたので、すごく興味を持って、撮影できないかマスターに仲立ちしてもらってお願いしたんです」。

「もちろん最初から良い返事はもらえませんでした。あちらとしては、よくある新聞か何かのルポだと思ったみたいで。そうではなく、写真集と展覧会を目的にしたアート・プロジェクトなんだと説明して、何度も会って話してるうちにようやく、ただの報道じゃないと分かってもらえて。結局、交渉には10ヶ月ぐらいかかりました。そこから2年ぐらいかけて撮影させてもらったんです」。

「ただ、最初のうちはどう振る舞っていいのかわからず、非常に緊張しました。特にああいう世界では言葉ではなく以心伝心で事が運ぶので、それに慣れるのにとても時間がかかったというか……。いつ撮っていいのか、いつ撮ってはダメなのか、言葉ではなく雰囲気や状況で察知できないとならない。それで、撮りたいなと思っても前に出ていけなかったり。でも、そういうナーバスな態度が逆に彼らには腹立たしかったようで、『写真を撮りに来てるんだろう、プロらしく動け!』と言われてからは、意識して積極的にふるまうようにしたんです」。

「こちらも『写させていただく』のではなく、対等な関係でいたかったので、まず好きなように撮らせてもらって、それを必ず全部見せるようにしてたんです。毎週のようにヨドバシカメラでプリントしたのを持っていって、『これは使ってもいい』『これはダメ』と見てもらってたんですね。そういう積み重ねが、少しずつ信頼感を生んでいったんだと思います」。


「今は禁止されてるようですが、撮影当時は組員が揃って、きちんとスーツで夜の街を歩いて回る『見回り』があって、それについて歩くのが、まず最初のスリリングな体験でした。別に誰かを脅したり、暴力を振るったりとかはぜんぜんなくて、ただ挨拶されて、挨拶を返す。それだけで、クリスタルクリアーなメッセージがさーっと広がっていくというか」。

「2009年から撮影を続けて、2010年のことでしたが、お世話になった組の大親分の1人が倒れて危篤状態になったんです。僕はそのときベルギーに帰っていたんですが、取るものもとりあえず飛行機に乗って、新宿に駆けつけて。病室に行ったら親分はベッドに寝ていて、すでに昏睡状態だったんですが、まわりにすすめられて親分の手を取りながら、話しかけてみたんです。聞こえてるのかどうか、わかりませんでしたけど。その時に『親分』とか『ヤクザ』といって特別視される人たちの、すごく人間的な一面を見た気がしました」。

「3日間病院に通って、3日目の深夜に親分は息を引き取りました。そのまま葬儀までずっと付き添って、骨を拾うところまで撮影させてもらって。そのときの写真のほとんどは、今発表するにはあまりにもプライベートなものですが、もしかしたら、時が満ちればそういう写真にも、それなりの場所が見つかるのかもしれません」。


「そんなふうに2年間で2万カットぐらい撮影しました。それを300カットぐらいに絞って、さらに92枚を選んで写真集にしたんです。日本に来るのも、撮影を続けるのも、写真集を作るのも全て自費でした。写真集を作るのすら初めてでしたから、デザインから紙の選択まですごく考えて。出版社とのコネもなかったし、経験もノウハウも全然なかったし……」。

「それで、デヴィッド(アラン・ハーヴィー)が序文を書いてくれて、『burn magazine』にインタビュー記事が掲載されたのもあって、最初の500部は1ヶ月足らずで売り切れてしまいました。その時になってようやく達成感のようなものが味わえたんですが、全部口コミですから、びっくりで。でもその売り上げで、それまでの旅費とか制作費の出費がカバーできました。出版社から出していたら、500部の印税ではどうにもならないですよね。だから、最初にお金が必要でも、こういうスタイルのほうが自由はあるし、大儲けできなくても気持ちいいなと」。

展覧会場付近のカフェには、メニューといっしょに「YAKUZA」のフライヤーが。Duvelとヤクザの組み合わせが渋い


アントン・クスタースがインタビューでも、写真集のテキストでも強調していたのは、彼の作品がヤクザという存在のいい、悪いというようなメッセージを伝えるドキュメンタリーではないという点だ。クスターズは自分の仕事を「アート・ドキュメンタリー」と呼ぶ。言い換えればそれは、何かのステートメントではなく、むしろ撮影対象を通した、彼なりの世界の把握の仕方なのかもしれない。

「日本においてヤクザという存在は、完全に社会の外側にいるのではありません。言ってみれば片足が内側、片足が外側というような。どうしてそんな在り様が可能なのか……。今回の撮影という体験を通して、僕は日本文化の精妙複雑さのようなものを教わったのかもしれません」。


マフィアともトライアドとも異なる、日本特有としか言いようのないヤクザという存在。日本人にとってそれは、あまりにも近いもの、日常の周縁にあるものとして、実話雑誌のような無節操な礼賛か、犯罪組織としての糾弾かのどちらかとしてしか、ほとんど扱われてこなかった。あるいは『仁義なき戦い』から『アウトレイジ』に至る、作り手の心情を投影する鏡のような存在としてしか。

そのような日本人の性(さが)をやすやすと飛び越えたアントン・クスタースの『ODO YAKUZA TOKYO』は、だからこそ僕ら日本の読み手をこそ震撼させる。その絶妙な距離感と、目線の鋭さで。そして何より、善悪を超えてそこにあふれ出る存在感と、否定しようのない美しさで。完璧な武器のような美しさで。完璧な死のような美しさで。

なお、現在リエージュのモノス・ギャラリー(Monos Gallery)では、『YAKUZA & HEAVENZ』という展覧会が2014年1月15日まで開催中。「ヤクザ&ヘヴンズ」とは、またすごい組み合わせに聞こえるが、『HEAVENZ』は今クスタースが取り組んでいる新シリーズ。ナチス政権時代に存在した、1634ヶ所におよぶ強制収容所(跡地も含む)を訪ね歩き、その真上の青空を写して「天上(heaven above)」を表現することで、ホロコーストという未曾有の出来事を捉え直そうという、長期プロジェクトだ。

そして「YAKUZA」の写真展は、12月5日から今度は香港のギャラリーで展示される。日本国内での展示はなかなか難しいと思われるので、興味あるかたはぜひ香港でご覧いただきたい。


YAKUZA & HEAVENZ

ベルギー開催
会期:2014年1月15日まで
会場:Monos Gallery, Liège
www.monosgallery.com

香港開催
会期:2014年1月25日まで
会場:AO Vertical Art Space
www.aovertical.com

※インタビューのフルバージョンとより多くの写真を見たい方はwww.roadsiders.com

取材・撮影/都築響一


インタビュー 都築響一
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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