2013年05月13日 (月) 掲載
日本において、ラップ・ミュージックはいささか奇妙なジャンルとして成立している。アメリカのように、巨大な市場があるわけではない。では、アンダーグラウンドな思想を貫いているのかというと、必ずしもそうではない。それでも、既に30年近い歴史を持ち、途切れる事なく、芸術的創造と商業的成功に対する野心を抱えた若者が参入し、新陳代謝を促してきた。確かに、端からすれば、閉塞的に、もしくは、空回りしているように思えるかもしれない。いまだ、「日本人がラップってwwwww」と嘲笑されることもしばしばだ。しかし、1歩踏み出して、中を覗き込んでみれば、あなたは意外にも多様で豊潤な表現と出会うことになるだろう。また、その場所は、多くの人が見て見ぬ振りをする社会のダーク・サイドの縮図でもある。2013年1月に、都築響一が上梓した単行本『ヒップホップの詩人たち~ROADSIDE POETS』は、15人の日本人ラッパーのインタヴュー集だ。ヒップホップに関しては門外漢だが、これまで、ヤンキーから独居老人まで、多くのアウトサイダーかつポピュラーな事柄を取り上げてきたこのベテラン編集者は、プロパーにはない新鮮な視点で、日本のラップ・ミュージックの特異性と普遍性を解き明かす。そんな、600ページ近い大著について、都築自身に語ってもらった。
まず、インタヴュイーの人選の基準についてお聞きします。ひとつには、前書きに書かれている通り、“地方”で活動しているということがあるのでしょうが、もうひとつ、今っぽい言葉で言うと“エモい”ラッパーが多いように思いました。
ツイッターで検索してみると、まず多い意見が「高過ぎ、ワロタwww」みたいな(笑)。ただ、3,600円で600ページ以上あるからね。ページ換算6円で、実はお得。次に多い意見は「何であいつが入っていないんだ」と。今回の人選は、“僕が好きなラッパー・ベスト15”とはまた違うわけですよ。音としてだったら、好きな人は他にもいるんだけど、元になった連載は文芸誌の『新潮』でやっていたこともあって、あくまでリリックが引っかかってくる人を選んだの。ただ、いま仰った「エモいラッパーが多い」というのもその通りだと思います。
都築さんにとって、“エモい(注: 情感がある、感情がこもっている)”の定義とは?
僕は、初めてレコードを買ったのが中学生だとすると、もう40年ぐらい音楽を聴いていることになる。その観点から言うと、やはり、その時代その時代のエモくなれる音楽っていうのがあると思うんだ。僕が若い頃はフォークで、やがてロックになり、パンクになり、いまの時代はヒップホップなのかなっていう感じがしますね。だって、クラシックやプログレじゃエモくなれないでしょう(笑)。あれは、スキルが必要だもん。
“エモい=初期衝動”みたいなことですか?
そうそう。だって、若者にはエモーションしかない。で、バンドだったら、まず楽器を買わなきゃいけないからお金がいる。練習しなきゃいけないから根性がいる。ひとりじゃできないから、人付き合いがちゃんとしているとか、スタジオの集合時間には遅れないとか社会性がいる。その点、ラップだったら、何も持たずに始められるし、歌唱力がなくてもいい。ましてや、ひとりでできる。だから、ヒップホップの方がよりエモいと思うんだ。
ただ、ロックが内省的だとしたら、ラップは社交的ですから、コミュ障は苦労するジャンルだと思いますけどね。
それはあるよね。先輩を敬うとか、友達と会ったら必ず握手するとか(笑)。そういうところが、チンピラと合性がいいのかなっていう気はする。今まで、こんなにもチンピラが表現できる媒体があったかなと考えると、なかったと思うわけ。
少なくとも、不良と詩情を結びつけたジャンルは珍しいですよね。
今までも、大麻を吸っているやつがロックをやるとかはあったけど、大麻のディーラーはバンドを組んでいなかっただろうと(笑)。そういう意味では、ヒップホップにはそれだけの許容量と敷居の低さを凄い感じる。昔は、文学的なものを書く人は、文学的な環境で育ってきたわけですよ。大学の文学部を出てたりとか、子供の頃から本をたくさん読んでたりとか。一方でラッパーたちは、文学なんてほとんど触れずに育ってきた人も多い。「少年院で薦められて読んだんですけど、宮沢賢治はマストっすね」、みたいなことを言うわけですから。まぁ、そうだけどさぁ……っていう(笑)。それでも、そんな人たちが高度な文学表現に近づいていくというのが面白い。
『無知の涙』(注: 獄中で創作活動を続けた永山則夫による手記)のようなものをラップに感じているということですか?
どうかな? だから、そこで昔は文学に向かったのが、今はリリックを書き始めるってことなのかもしれないね。でも、重要なのは、決してラップはチンピラだけの音楽じゃないということだよね。チンピラもやれる音楽っていうところが重要。
そうですよね。例えば、この本で言うと、鬼はいわゆるチンピラっぽいところがある。ただ、ZONE THE DARKNESSやレイト、チプルソ、志人のような、不良というよりは文化系なラッパーも数多く取り上げられている。先程、“エモい”と言ったのは、むしろ、彼等のことで、どちらかと言うと、そちらの比重が大きいかなと思ったんです。これまでもヤンキー文化について書いてきた都築さんが、前者にハマるのはよく分かるんですが、後者にハマるのは意外だなと。
でも、連載を始める前から、これぐらい分厚い本にしようとは考えていたので、いちばん心がけたのは、いろんなタイプのリリックが載っているっていうことだったんだよ。あと、一般の人はラッパーっていうと、デカいジャージを着て、NYヤンキースの帽子を被って、不良で、みたいなイメージを持っているでしょう。それに対して、ZONE THE DARKNESSとかは、見た目は普通だし、表現も文学的で、先入観を崩されると思うんだけど、実際に会って話を聞いてみると、「もともとは、オレオレ詐欺をしてました」みたいな感じで、「えー!」って二重にびっくりする。1冊を通してそういう複雑さは出したつもり。
2012年に放送された『高校生RAP選手権』(注: 『スカパー』のプログラム『BAZZOKA』の企画)の第1回でも、ヤンキーの子とオタクの子っていう、教室だったら、絶対に会話をしないような組み合わせで戦っていましたし、優勝した子が、「部落育ちでもこういうことがやれるって証明できて嬉しい」って呟く。ラップはいろんなしがらみを解放するんだなって思いました。
本当にそうだと思うんだよ。チプルソなんかも、小学校の頃から引きこもりだったのが、マイク・バトルにまで出ちゃうわけだからさ。そういうのって、音楽の力としか言いようがないよね。
この本でも、ANARCHYの「少年院で見るテレビにZEEBRA/消えかけたろうそくに火をつけた/教官にばれないように書くリリック/自分の胸に響く」っていうラインが引用されていますが、『高校生RAP選手権』でも、ANARCHYより15歳も若いラッパーの子が、同じように「少年院の中でZEEBRAの曲を聴いて、リリックを書き始めて……」みたいなことを語っている。ラップに救われる子は常にいるんだなっていうか、ZEEBRAすげーなと(笑)。
「よっしゃ!」って感じになるんだろうね。それこそ、エモーションだよ。
ちなみに、2006年の『夜露死苦現代詩』では、反・現代詩的な表現として日本のラップを位置付けていました。今回の『ヒップホップの詩人たち』も、その文脈の延長にあると考えていいですか?
うーん、反・商業音楽って感じかな。僕は、もともと歌謡曲が大好きなんですね。昔のドロドロのやつは、歌詞が格好いいんですよ。今の若い歌手に、「自分に自信を持とうよ、イェー!」とか歌われても、うるせえって感じじゃない。それよりは、「別れる前にお金をちょうだい」(美川憲一『お金をちょうだい』より)とか歌われた方がすごいなって思うわけ。だけど、オリコンを見れば、1位から10位までAKBと嵐しか入ってない。ラジオやテレビから流れる音楽はクズみたいなものばっかり。そういうことって、僕だけじゃなくて、若い子たちも感じてるはずなんだよね。だって、18歳ぐらいの子が彼女とデートをする時にAKBや嵐はかけないでしょう。でも、それしか取り上げないメディアというものがあって、そんなこと分かっているけど、違う音楽を聴く人たちがいるっていうギャップが面白いと思ったの。
今って、メンヘラの時代じゃないですか。その空気って、売れ線のポップスにも感じるんですよ。だからこそ、「ひとりじゃないよ」とか「大丈夫だよ」みたいな歌詞ばっかりで、つまり、安定剤として聴かれている。一方、ラップには、闇がストレートに表現されていて、それこそ、メンヘラの話もそのまま歌うっていうのがある。
本当はそのまま表現されなきゃいけないわけよ。小説だって、何だって。あまりにも小難しくなっちゃってるから良くない。あと、ポップスに関していうと、僕は音楽性自体を批判しているわけじゃなくて、それしか伝えないメディアのことを批判したいんだよね。同じ番組とまでは言わないけど、別の時間帯で良いから、ももクロも出てくれば、鬼も出てくるべきなんだ。だって、両方、若者が聴いている音楽なんだから。なのに、メディアは片方に偏っている。それはおかしいと思うんだよね。
今回、前書きにも後書きにもインディペンデント精神について書かれた意図は、そういった旧態的なメディアに頼らなくてもいいんだということでしょうか?
やっぱり、10年前とは状況が大きく変わってきていて、自分で発信できる時代になったじゃない。パンクスの頃はまだまだメディアが東京中心だったと思う。頑張って東京に出てきて、安アパートを借りて、バイトしながらデモテープ作って、レコード会社に送る……みたいな。そういう子たちが集まっていたから、当時の中央線沿線って面白かったんでしょう。でも、今、高円寺とかがつまらなくなったのは、THA BLUE HERBみたいに地方に居たままでも活動ができる、むしろ、その方が売れる、みたいになってきたこととも関係があるんじゃないかな。
そういえば、『演歌よ今夜も有難う 知られざるインディーズ演歌の世界』(アスペクト/2011年)っていう本の帯には、「ヒップホップやロックだけじゃない、演歌にもインディーズがある!」ってあったんですが、インディーズ演歌とヒップホップには共通点はありますか?
あるある。やっぱり、持続力だよね。それから、ウケているかどうか気にしないということ。だって、インディーズの演歌歌手なんか50年ぐらいやってるわけじゃない。その間、ほぼ全員から馬鹿にされているんだから。だけど、ドレスを着て、カラオケ喫茶のステージに立つ時には、ただのジジババじゃなくて、生き生きして見える。そこから学ぶことは多いと思う。
ヒップホップって、ロックに比べたら新しい文化で、特に日本では、歳を取ったラッパーはまだまだ少ないですよね。現役ではいとうせいこうさんがいちばん上になるのかな。
坂上弘さん(注: 1921年生まれ、佐賀県在住のシンガーソングライター/ラッパー)を除けばね。今後、どんどん変わっていくんじゃないかな。例えば、ひと昔前だったら、自分の子供についてラップする人っていなかったでしょう?
そうですね。ECD(注 :日本のヒップホップ黎明期から活動するラッパー。近年は自らのアル中体験や育児を綴った著作活動でも知られる)は新作で老後の心配についてラップしていますし。今、いとうさんやECDの名前が出てきたところで伺いたいのですが、都築さんが日本のラップを聴き始めたのはいつぐらいからなんですか?
僕が知ったのは、それこそ、いとうせいこうさんとか、近田春夫さんとかが始めた頃。ただ、何か肌に合わなかったんだよね。80年代半ば頃、編集の仕事でよくニューヨークに行っていたので、ヒップホップ自体は初期から聴いてたんですよ。他にも、『パラダイス・ガレージ』(注 :80年代のニューヨークを代表する伝説的なクラブ)があったりとか、ニューペインティング(注 :80年代絵画の潮流のひとつ。キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアなどがその代表)が起こったりとか、アメリカが面白い時代だったし。で、その後、あっちのヒップホップはどんどんハードコアになっていくでしょう。それに比べて、例えば、スチャダラパーとかを聴いてもピンとこなかったわけ。
スチャダラは、アメリカで銃についてラップするのがリアルなら、日本ではファミコンについてラップするのがリアルだ、みたいな態度でしたよね。
うん。この間、大根仁さんと『新潮』で対談したときに、彼はジャストな世代だったって言ってたけど、僕なんかはもういい大人だったから、「子供っぽいなぁ」とか思っちゃって。そこで、ズレを感じて、日本のヒップホップ自体を真剣に聴いてこなかったの。
この本にも出てくるTwiGyは、都築さんも関わっていた芝浦のクラブ『GOLD』で「暗夜航路」っていうイベントをやってたりしたんですけどね。
残念なことに、その辺はリアルタイムでは知らなかったんですよ。
インタビュー後編に続く。
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