アルファベットでめぐるAC/DC

来日を控えた最強ライブバンド『AC/DC』の歴史をおさらい

アルファベットでめぐるAC/DC

世界的に偉大なロックンロールバンド『AC/DC』の地元オーストラリアでの凱旋ライブを記念し、タイムアウトシドニーのアンガス・フォンテーヌが、リードメンバーのアンガス・ヤングになりきってアルファベットを“AC/DC流”にアレンジした。

[A]Angus Young(アンガス・ヤング)

アンガス・“ボム(爆弾)”・ヤングは、小型ロケットランチャーのような威力を持ったリードギタリストで、AC/DCの台風の目だ。アンガスは、ウィリアムとマーガレット・ヤング夫妻の末っ子で、生まれて初めて手にした楽器は地元バーウッドの楽器屋で購入した中古のギブソンSGモデル。このギターで、チャック・ベリーやマディ・ウォーターズ、ハウリング・ウルフの曲をがむしゃらに弾きまくった結果、ギターはたっぷり汗を吸い込み、ボディが腐って使い物にならなくなった。以後、アンガスは、シドニーにある母校アッシュフィールド男子校の制服に身を包み、何台ものSGを消耗させることになった。

[B]Bon Scott(ボン・スコット)

ボンは、1974年から1980年2月19日にロンドンにて“偶発的事故による死亡”(すなわち、急性アルコール中毒)するまで、AC/DCのリードヴォーカリストを担当。ボンの穴を埋めたのがブライアン・ジョンソン。ボンは死ぬ前にイギリスのバンド、『ジョーディー』で歌うブライアンを見ている。ブライアンがステージ上でもだえ苦しみ、その絶叫に近いヴォーカル姿に感動したらしいが、その晩のブライアンのパフォーマンスには裏があった。ブライアンは虫垂炎を煩っていて、その激しい痛みが印象的なパフォーマンスを引き出していたのだ。当人はステージ上で倒れ、会場から担ぎ出される始末に……。ブライアンがAC/DCのメンバーとしてリリースした初アルバムは、1980年の『Back in Black』(邦題『バック・イン・ブラック』)。このアルバムは、全世界で4500万枚の売上を達成し、あのマイケル・ジャクソンの『スリラー』に次ぐ売上歴代2位を記録。ブライアンの歌声が聴ける最新作はAC/DC通算18作目となる2008年の『Black Ice』(邦題『悪魔の氷』)で、これは2001年以来のリリースとなるのアルバムとなる。

[C]Chequers(チェッカーズ)

『チェッカーズ』は、1973年の大晦日にAC/DCが初ライブを行った場所。シドニーのCBD(中心業務地区)にあるゴールバー・ストリート沿いに会場があった。アンガス・ヤングは当時の初ライブの様子を振り返り「バンドは結成からまだ2週間。俺たちはステージに上がって激しい演奏をしてやった。出だしから調子よかったね。でも、会場には、“このイカれた奴らは何者だ?” という空気があった。“あのサルどもにバナナを餌付けしたのは誰だ?”ってね」。

[D]Dirty Deeds Done Dirt Cheap (邦題「悪事と地獄」)

1976年に制作されたが、アメリカのレコード会社役員がアルバムをひどく毛嫌いしたせいで、実際にリリースされたのが1980年になったアルバム。[D]はまた、Devil(悪魔)の[D]でもある。ブライアンの言うところによると、悪魔は「アンガス・ヤングの指先を通してコミュニケートする」とのこと。一部の清教徒はAC/DCというバンド名がAnti-Christ Devil’s Children すなわち“反キリスト、悪魔の子”の略だと決めつけているが、アンガスはこの誤った当て字を逆手に取った。指で悪魔の角を作り、痛快なほど冒涜的な『Hell‘Aint a Bad Place to Be』(地獄はそれほど悪くない)を演奏するようになったのだ。

[E]Evans(エヴァンス)

AC/DCには2人のエヴァンスがいた。ひとりは、ニューキャッスル生まれの薬中シンガー、デイブ・エヴァンス。1974年初頭に、恥知らずの行動でバンドをクビになった人物だ。もうひとりは、マーク・エヴァンス。初期のアルバム『High Voltage』 (邦題「ハイ・ヴォルテージ」)、『TNT』、『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』 (邦題「悪事と地獄」)と『Let There Be Rock』(邦題「ロック魂」)でベースを弾いていたが、今はアナンデールのパラマッタ通りで『ザ・ベースプレーヤー』という店を経営している。[E]は『Easybeats』(イージー・ビーツ)の[E]でもある。このバンドは、ヤング家三兄弟ジョージ、アンガス、マルコムによって形成されたバンドで、オーストラリアで最も偉大なロックンロールバンドであるAC/DCの前身とも言える。

[F]Flick of the Switch (1983、邦題「征服者」)

この2枚のアルバムは、AC/DCにとって、完成度、メンバーの意欲、売上、全ての面で衰運の極に至らせたアルバムだ。この頃、オリジナルドラマーのフィル・ラッドはツアーのストレスのせいで“ホワイトライン・フィーバー”(わかり易く言うとコカイン中毒)になり、バンドの裏リーダー的存在だったマルコムとの殴り合いの喧嘩の末、グループを脱退した。[F]はfellatio(フェ○チオ)の[F]でもある。1975年にライブハウス『ボンディ・ライフセーバー』で行われたステージ上でボンが経験した悪名高きインシデントだ。

[G]Greatest Hits collection (グレイテスト・ヒット)

と言いたいところだけど、AC/DCは数十年に渡るキャリアで2億枚以上のアルバムセールスを記録しており、未だベスト版をリリースしていない。AC/DCは2001年以降しばらくアルバムをリリースしていなかったのにも関わらず、2007年はアメリカ国内だけで130万枚ものCDを売り上げている。

[H]Highway to Hell (邦題「地獄のハイウェイ」)

AC/DCの6枚目のスタジオアルバムで、アメリカで大ブレイクした一枚。ただアルバムのラストを飾る曲『夜のブローラー』が、1985年に連続殺人犯のリチャード・ラミレスが犯行現場のひとつにAC/DCの帽子を残した事件をインスパイアした曲と供述したことで、アルバムは望ましくない形で注目を集めてしまった。この曲が終りに近づきフェードアウトしかけているときに“シャズボット、ナヌナヌ”という意味不明の言葉が聞こえるが、これはロビン・ウィリアムズが『モーク&ミンディ』というテレビ番組のエンディングで使っていた決まり文句。これをボン・スコットが借用したのだけど、不気味なことに、ボンがAC/DCのフロントマンとしての最後に残した言葉になった。

[I]Influence(影響)

AC/DCがオーストラリアと世界中のハードロックにもたらした影響は計り知れない。名プロデューサー、リック・ルービンは「僕はAC/DCが世界の歴代音楽史上、最も偉大なロックンロールバンドであると公の場で明言する」とAC/DCを評価した上、「彼らは感情的な歌詞は書いたり、演奏したりもしなかった。彼らのエモーションは全て彼らが創り出すグルーヴにあった。そして、そのグルーヴはどの時代にも通用し、色あせることがない」と話している。

[J]The Jack(ザ・ジャック)

『The Jack』(ザ・ジャック)は、アルバム『TNT』に収録されている曲。ザ・ジャックとは“性病”という言葉を“控えめ”にした表現だ。そもそも、AC/DCのメンバーは性病(ザ・ジャック)と無縁ではなかった。かつて、ボンがパディントンのジャージー通りに住居を構え、残りのメンバーがキンングス・クロスにあるハンプトンコート・ホテルに住んでいた頃、このホテルは追っかけ(グルーピー)を磁石のように吸い寄せる場所だった。1975年にボンがこの曲を書いたときに、この曲が人々の感情を刺激するポテンシャルがあることを充分に自覚し(ゴホン、言い過ぎかな?)、女友達にこう言った「女性解放運動のメンバーに去勢されちまうかな?」。ザ・ジャックは今でもAC/DCがライブで演奏する定番の一つ。演奏が11分以上になることもざらだ。

[K]Kangaroo House (カンガルーハウス)

シドニーCBDの139キング通りにあるカンガルーハウスは、アルバート・レコードが本社を構えていた場所で、AC/DCがジョージ・ヤングとハリー・ヴァンダらプロデューサーの指導のもと、初期のアルバムを録音した場所だ。後に“名作”と呼ばれるようになった初期のアルバムのほとんどは、2週間で作業を終えた。ボンは、初テイクのエネルギーを常に保つため、小さな黒いノートの中に即興で歌詞を書き貯めた。その歌詞は、貧民を代表する詩であり、トイレの壁にある落書きのように“神聖”なものだった。

[L]Left Hook(左フック)

フィル・ラッドは、Left Hook(左フック)というあだ名で知られている。ラッドは、AC/DCの中で唯一オーストラリア生まれのメンバーだ。1974年にAC/DCに加入し、1983年に脱退。しばらくニュージーランドでヘリコプターを操縦し、切り立った山あいに潜む野生の鹿を追う生活をしていたが、1994年にバンドに再加入。Left Hook(左フック)というあだ名は、ラッドが1976年の『ロック・アップ・ユア・ドーターズ』ツアー中にホーンズビー・ポリス・ボーイズ・クラブでスキンヘッド・ギャングと喧嘩を起こした際についたものだ。

[M]Mantovani(マントヴァーニー)

AC/DCのプロデューサー、ジョージ・ヤングはAC/DCの楽曲アレンジをイギリスの編曲者、マントヴァーニーのアレンジ理論に照らし合わせていた。「楽曲がマントヴァーニーの楽曲理論と重なれば合格。編成に間違いがないということだ。あとは、曲をダーティにすれば良かったのさ」とアンガス。[M]はマルコムとアンガスの姉、マーガレット・ヤングの[M]でもある。彼女は交流入力直(AC)流出力(DC)電源のミシンをもっていて、この二つのことなる電流の名前が、結成して間もない弟達のバンド名に相応しいと考えたのだ。

[N]Nirvana(ニルヴァーナ)

『Nirvana』(ニルヴァーナ)は、カート・コベインがフロントマンを務めたロックバンド。カートは『Back in Black』 (邦題「バック・イン・ブラック」) を手本にしてギターを独学したそうだ。

[O]O’Brien Street(オブライアン通り)

ボン・スコットは1979年の夏に、ボンディのオブライアン通り沿いにあるアパートを購入している。

[P]Powerage (邦題「パワーエイジ」)

キース・リチャーズは、最も好きなAC/DCのアルバムとして、1978年にリリースされたこのアルバムを挙げた。2003年2月18日、エンモーア劇場の観客2000人の前で行われたローリング・ストーンズのライブで、『ロック・ミー・ベイビー』を一緒にジャムるミュージシャン候補を探していた時に、このアルバムがアンガスとマルコム・ヤングを招待するきっかけを作ったそうだ。ちなみに、このライブは、シドニーで行われた『Black Ice』(邦題「悪魔の氷」)ツアー初日のちょうど7年前にあたる。

[Q]Queer(同性愛者)

AC/DCのメンバーには同性愛者はいない。ただ、一部の人々にとって、彼らのバンド名は両性愛をほのめかす表記でもあるのだ。これについてマルコムは「俺たち5人を、“女形”と思いたいのなら、それで構わないぜ」。

[R]Rosie(ロージー)

ロージーとは、ボン・スコットがAC/DCの曲『ホール・ロッタ・ロージー』の中で、“305ポンド (138kg) のタスマニアンデビル。姦淫の歴史上最も大きく、太った女性”と称賛した人物。1977年のアルバム『ロック魂』の中でも特に有名な最終トラックの歌詞に登場する女性だ。「美人とは言えない/小柄だとも言えない/3サイズは42-39-56(106cm-99cm-142cm)/サイズは天下一品」。この曲のオープニング・リフは今や神格化され、今日のライブで人気がある曲。今回のツアーでもロージーの巨大な空気人形がお披露目となるだろう。

[S] Strata Inn(ストレイタ・イン)

クレモーンにある『ストレイタ・イン』は1979年2月5日に、ボン・スコットがオーストラリア本土での最後のパフォーマンスをした場所。写真家のフィリップ・モリスはタイムアウトに「彼らは、アルバーツで行われていたパーティを出てから、ロックバンド、『フェレット』のライブに乱入して、100人の観客の前で『ハイウェイ・トゥ・ヘル』のデモを演奏した」と話している。このパフォーマンスの1年後、ボンは他界してしまう。

[T]T.N.T

AC/DCのセカンドアルバムで不死のアンセム『It’s a Long Way to the Top (If You Wanna Rock ‘n’ Roll)』が収録された一枚。が、この曲がAC/DCのセットリストに含まれていないのは明白な事実だ。その原因となったのが、ジョン・ファーナムがオーストラリア・ミュージック・アワードでこの曲を歌い、曲の魅力が完全に消滅させるパフォーマンスをしたから(?)。後に、ファーナムはこの曲を歌った理由を「名曲だから?伝説のバンドの楽曲だから?いやいや、ただ、俺の声にぴったりの曲だと思ったのさ」と弁明したが……。

[U]Underdog(弱者・敗北者)

AC/DCは万人に好かれるバンドからほど遠い。これまでも3つのコードをキラー・リズムに変貌させて観客を魅了するなどして、通例を覆そうと無駄な抵抗を試みてきた。2008年にローリング・ストーン誌の編集責任者ジェイソン・ファインですら「最後にAC/DCを本格的に取り上げたのは1980年だった」と認める始末、「AC/DCは常に過小評価されてきたよ」と締めくくった。

[V]Villawood(ヴィラウッド)

『Villawood(ヴィラウッド)』は、1963年にアンガスとマルコム・ヤングがグラスゴーからシドニーに初めてやってきたに彼らの“自宅”となった出稼ぎ労働者用のホステル。『Victoria Park(ヴィクトリア・パーク)』はグリーブにある公園で、ボン・スコットが1975年にAC/DCのメンバーとして初めてギグを行った場所だ。「観客は開いた口が塞がらなかった。ボンは、アンプによじ登り、アンガスは客席に飛び込んだ」と写真家のフィリップ・モリスが当時の様子を振り返る。「AC/DCは結成当時から自信たっぷりで目立つ存在だった。」

[W]The Wiggles(ザ・ウィグルス)

シドニー出身のこのバンドは、影響力、売上でAC/DCの最大のライバルと言える。長年、このお子様ロックのファブ・フォー(偉大な4人組のビートルズのことを“ファブ・フォー”と呼ぶことになぞらえて)は、『ビジネス・レビュー・ウィークリー』が決めるオーストラリア・エンタテーナー長者番付の1位に君臨していたが、2009年には、AC/DCが年間4500万ドルの収入を得て1位の座を奪還することができた。

[X]Xmas cards(クリスマスカード)

ボン・スコットがすでに他界した1980年の2月19日、ボンの家族・友人のもとに彼からのクリスマスカードが届いた。カードが遅れて届いたのは、愛すべきバンドのフロントマンがカードに充分な料金の切手を貼らなかったことで配達が滞ったから。憎めない悪党が世に残した数々の伝説に相応しいエピソードだが、彼の努力は評価したい。

[Y] Young(ヤング)

AC/DCの二頭蛇、リードギターのアンガスと兄でリズムギターのマルコム・ヤング。二人は、バンドの創立メンバーであり、共にAC/DCの全ての楽曲を手掛けている。バーウッドで育った二人は、ステージ上では“テレパシー”を使って意思疎通ができるという伝説的な能力でも有名。(ちなにみ、アンガス曰く、兄弟が育った家は現在売春宿になっているとのこと)。二人は今でもシドニーに家をそれぞれ所有している。

[Z]Zorro(怪傑ゾロ)

アンガス・ヤングのステージ衣装がアシュフィールド男子校の制服(現在、この学生服はビロード製になった)に落ち着くまで、試験的に使った衣装のひとつ。他に試された衣装には、年末カウントダウンパフォーマンスで着用したゴリラスーツ、『スーパー・アング』と呼ばれたケープ付きの装いなどがある。

原文へ(Time Out Sydney / Fed, 2010 掲載)

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翻訳 一居 純
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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