東京を創訳する 第2回『日比谷–東京の臍』

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

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東京を創訳する 第2回『日比谷–東京の臍』


この400年、東京の地勢の基本は変わっていない。それを理解するには、海に面した「埋め立て地」、川に挟まれた「低地」、内側に広がる「台地」の3種の土地を知るだけでよい。その3つ、すべてを見渡せる場所が皇居の東南の角、日比谷にある。


日比谷の交差点に立つと、南の方角は江戸以前には入り江、海であった。日比谷からいまの海岸のあるところ、たとえば浜離宮までは道路とビルが建ち並ぶが、大方が川や海を造成した「埋め立て地」である。とは言っても、江戸以前の海岸付近は、全体が非常に凹凸(凸が後に説明する台地なのだが)の多い土地で、日比谷通りの先に東京都23区内の最高峰、愛宕山(たかだか標高25.7mではあるが)があったりして、ずいぶんと海岸線は入り組んでいた。そこで小高いところ(凸)を削り、あるいは江戸城のお壕を掘った土を使って、低いところ(凹)を埋めて均すという、江戸という人工都市ならではの大公共事業が行われた。それによって、日比谷、丸の内から八重洲、日本橋、京橋、新橋、築地が出来上がったのだ。

現在では「水」の無いところにも、地名に「谷」、「(中)州」、「橋」という地名があったりするのはその為である。生鮮食材の市場で有名な「築地」とはもちろん、埋め立て地の意味である。

1657年の明暦の大火以降、もっと広々とした安全で活力のある江戸が再構想され、川の流れの改修と海の埋め立てを行い、隅田川の東、いまの「江東」区の深川辺りまで、江戸は市街地を拡張した。東京になってもその人工都市としての地勢の基本は変わらない。だから今も東京が拡大していく際には、臨海副都心とオリンピック施設が、江東区の埋め立て地に再び構想されているわけだ。


次は、日比谷から北の方角に向かって、左手に皇居を見る。お濠があって石垣がある。その石垣が、水面からすぐに立ち上がっているのは、この辺りが入江から続いた低い土地だったことを物語っている。この日比谷濠と、日比谷通りから東側の有楽町、銀座以東、以北は、海抜数メートルの「低地」で、大きく言えば利根川水系、身近な流れでは隅田川などの水流が作った堆積地なのだ。その中にも入江や沼地があり、そしてそれが埋め立てられたことはすでに述べた通り。この平らな土地は、千葉県まで続く。

さて、日比谷から皇居の西の方向を見通すと、桜田門とその向こうの桜田壕が見えるはずだ。この濠は、この連載の第1回「皇居」の写真に見られるように、日比谷通りの壕とは違い、水面自体も日比谷壕より10メートル以上も高いのだが、さらにそこから草に覆われた斜面が立ち上がり、その上に石垣、塀が作られている。その理由は、この壕が小高い台地を掘って出来上がっているからだ。お濠の国立劇場側から皇居の吹上御苑を臨むと、一続きの同じ平面だったことが分かる。つまり広大な武蔵野「台地」は、西からやって来て、ここ、桜田門で江戸以前の「低地」と出会っていたのだ。第1回で書いたように、皇居内に「江戸以前の(武蔵野の)自然を抱え込むことになった」のは、ここに理由があった。

かくして、皇居の前身の江戸城、さらに江戸以前だと太田道灌が造った城は、台地と低地と入り江が交わる、大地の臍のようなところに位置していたことになる。正確に言えば太田道灌が建てた城は、「平山城」と呼ばれる、平地の小高いところに建っていたものだが、為政者の城が台地の端に、低地を見下ろして統治を行うように建てられたと考えれば、納得できる。その後、江戸城の周囲と西側の「台地」は、大名・旗本が住む「山の手」になり、東側に「低地」が埋め立てで拡大しながら町人の住む「下町」になっていく。都市計画として、実に整然としている。

ただ、江戸の都市としての弱点のひとつは、意外にも「水」であった。これまで述べたことを読めば、江戸の土地は水に溢れているようであるが、それは海水であり、井戸を掘っても塩分の混じる水であった。そこで、生活用水は台地の向こうの井の頭池や多摩川から、台地の傾斜を利用して石と木の樋で引いてきたのだ。その苦心は大変なことであったろう。そのことはいずれ話す機会があるかもしれないが、筆者は、水が江戸の郊外から地上の用水路を経て町中にやってくると、今度は地中の石と木の樋を通って、武家と町人の生活の場に配られる様子が、都心に向かう近郊連絡線が地下鉄に乗り入れて潜る様子に似ているように思える。ここにも江戸・東京の地勢図の基本は変わらないな、と考えたりするのである。


船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。フィールドワークを、メラネシア(ヴァヌアツ、パプアニューギニア)、ポリネシア(ハワイ、タヒチ)、日本(山形県庄内平野)、東アジア(中国、韓国)で行なう。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に『国民文化が生れる時』(94年・リブロポート)、『知の技法』(94年・東京大学出版会)、『新たな人間の発見』(97年・岩波書店)、『柳田国男』(00年・筑摩書房)、『二世論』(03年・新潮文庫)、『「日本人論」再考』(03年・NHK出版。2010年、同名にて講談社学術文庫にて再刊)、『大学のエスノグラフィティ』(05年・有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(07年 ・PHP新書)、LIVING FIELD(12年・The University Museum, The University of Tokyo)などがある。funabiki.com/

テキスト 船曳建夫
撮影 豊嶋希沙
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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