2014年06月09日 (月) 掲載
これまで5回にかけて、地勢、皇居、遠くの富士山と、東京・江戸という舞台を説いてきたが、今回はその最後となる、海について解説する。
海に面している大都市は世界に他にもあるが、と書きだして、実はあまり無いことに気が付いた。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、とアメリカばかりで、リオデジャネイロもあるが、あとは、バルセロナでもマルセイユでも中都市の規模である。日本は大阪、名古屋と大きな都市はみな海に面しているので、日本人の私には他の国でもそうだろう、という固定観念があった。日本は島国なのだ。大都市に必要な流通は、まずは船による海運だった。ところが、東京湾は船が往来するだけでなく、そこで漁業が行われる「鮨の海」なのだ。
鮨(寿司)屋が看板に「江戸前鮨」、と書いているのは何であろうか。きっと普通の人は「江戸風」の鮨、という意味だと思っているだろうが、そうではない。「江戸の前にある海」でとれた魚介類を扱っていますよ、という意味なのだ。いまのベイエリアの風景からは想像もつかないが、東京湾は江戸時代から日本有数の豊かな漁場だった。近代に入ってから始まった遠洋漁業は別にして、海岸から行う漁業は遠浅で汽水(海水に淡水が混ざっている状態)の域が、魚の餌の藻やら海草やらが豊富で、魚や貝類も多く集まる。東京湾という海はそれに合致していて、多摩川から江戸川までの沿岸は水深約15メートルの遠浅で、関東平野から沢山の川が流れ込み、漁場として最高なのだ。
この海では、鮨種だったら何でも採れた。カレイ、コハダ、サヨリ、穴子、シャコ、芝エビ、赤貝……マグロが無いじゃないか、と言われるかも知れないが、昔はマグロはそんなに上等な魚ではなく……なんて、年寄りじみたことを言うより、三崎や小田原で取れたマグロが持ち込まれていた、と言えばよいだろう。偽装表示で有名になった芝海老も、芝が江戸時代、海岸近くにあったときに採れたので名付けられたのだ。この辺りは、藤井克彦という人物の『江戸前の素顔』(つり人社)という本に依拠しつつ書いているが、それによると、カレイなどは1931年(昭和6年)には、おおよそ50万尾が採れたであろうという。牡蠣の養殖でも広島を抜いていたこともあり、都道府県の漁獲高でかつては日本一だった。この豊かさがなくては、江戸・東京の胃袋を満たす築地の魚市場が成立しなかった。
私も幼い頃、昭和30年代に下町の親戚とだぼはぜ釣りに行ったことがある。東京湾の河口あたりで、それこそ何百という人が水際に並んで、ひとりで2本の竿を持つ人もいるのだが、ほとんど入れ食いであった。子どもの私でも、何十と飽きるくらいに釣れた。家に帰り天ぷらにして食べる。思い出せば豊かな海であった。すべては埋め立てと工場排水による汚染の結果、漁業補償で漁業のシステムが失われ、東京湾がつい50年ほど前まで、豊かな漁場だったことが忘れられている。実際、1955年(昭和30年)には漁獲高が約14万トンとピークを迎えた。
江戸前については、大論争がある。福岡やニューヨークで江戸前鮨とは何だ、というのは、日本にあってもフレンチレストランと言うのと同じだからいいじゃないかくらいに思うのだが、そもそも江戸前とはどこだ、という論争だ。紙幅の都合で結論から言うと、多摩川から江戸川までの海岸線の前の海、それを 江戸前という。ややこしいのは、それぞれのプライドと思惑で「多摩川なんて、昔は江戸じゃない」とか、「江戸の漁師が採ってきたら多摩 川であろうが、今の千葉県辺りだろうが、江戸前の魚だ」とか、ムキになったりすることだ。もとより、線が引けない海についての論争だから仕方ないところがある。いずれにせよ、江戸前が水産物のブランド名になった頃(江戸の後期だろうか?)、漁師であれ鮨屋であれ、江戸前と看板を掲げるかどうかで、売り上げが違ったからだろう(実は始め、「江戸前」を称したのは鰻なのだが、その辺りは今回は省く)。
とはいえ、今では江戸前で魚が採れなくなったのだから、そんな論争も無意味だと思っていたら、事情が変わってきた。工場の排水規制やら環境への関心が高まったことなどから、東京湾が再生しつつある。一度失われたものを元に戻すのは難しいが、陸よりも海は懐が深いのか、希望が持てるとのこと。本当の江戸前鮨が食べられるようになったら、それは東京の魅力が増すことになる。自分で駄目にしておきながら、他所の江戸前にいちゃもんを付けていたのはみっともなかったが、江戸前が復活したら、江戸自慢をしてもいいかも知れない。
船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。フィールドワークを、メラネシア(ヴァヌアツ、パプアニューギニア)、ポリネシア(ハワイ、タヒチ)、日本(山形県庄内平野)、東アジア(中国、韓国)で行なう。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に『国民文化が生れる時』(94年・リブロポート)、『知の技法』(94年・東京大学出版会)、『新たな人間の発見』(97年・岩波書店)、『柳田国男』(00年・筑摩書房)、『二世論』(03年・新潮文庫)、『「日本人論」再考』(03年・NHK出版。2010年、同名にて講談社学術文庫にて再刊)、『大学のエスノグラフィティ』(05年・有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(07年 ・PHP新書)、LIVING FIELD(12年・The University Museum, The University of Tokyo)などがある。funabiki.com/
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