東京を創訳する 第1回『皇居』

文化人類学者、船曳建夫の古今東京探索

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東京を創訳する 第1回『皇居』

©淺川 敏


1600年と1868年、東京の歴史を知るには、この2つの年号を覚えておけばよい。1600年は、日本の武将、徳川家康が天下分け目の大会戦に勝った年で、この時から江戸、すなわち今の東京を中心として新しい日本の社会政治システムが始まる。1868年は、その家康が始めた江戸の政治体制が崩壊し天皇を担いだ、新たな近代的な政権が生まれた年である。1600年より前を「江戸以前」、1600年~1868年を「江戸時代」、1868年から今日までを 「近代日本、または今の日本」と呼ぶことにしよう。

東京の観光ガイドを、このような歴史区分からはじめたのには訳がある。東京のどの風景を切り取っても、そこには江戸時代と近代日本の重ね合わせであったり、江戸以前の自然に、今の日本があったりするのだ。たとえば有名な浅草寺のある浅草は、江戸以前の豊かな自然によって海苔の産地であった。鮨の海苔は、この地名が付いた浅草(アサクサ)海苔が使われる。そうした、漁業をしている者の網にかかった仏像を本尊として浅草寺が創建され、浅草は江戸時代になると江戸の発展と共に、寺の周りは庶民の娯楽の場所となって大いに栄えた。近代日本に入っても、引き続き繁華な町として発展し、映画館などが建設され人を集めていた。しかし、戦後になると、東京の盛り場は新宿や渋谷といった西のエリアに移る。浅草は次第に衰退していったが、時代に取り残された感じがかえってレトロな雰囲気を醸しだし、外国からの観光客を呼ぶこととなり、東京と言えば"ASAKUSA"とまでに有名な観光地となって今に残る。このように、東京は3つの時代が重なったものとしてみるとわかりやすい。


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今回は皇居がテーマだが、ここも、東京の3つの時代が層を成している。ロラン・バルトというフランスの批評家が、皇居を「空虚な中心」と呼んだ。なるほど、東京のど真ん中に何にも使われていない、ただ交通の邪魔をしているような空間が、周囲5kmの巨大な広さを占めている。もちろん、天皇家が住むのに使われているのだが、ロンドンのバッキンガム・パレスの何十倍の広さがある。1家族分の住居としては効率が悪い。しかし、これについてほとんどの日本人は特に奇妙だと思わない。それは日本人がバルト氏が言うように、1家族が住んでいるかどうかなどはおろか、皇居のこと自体を空虚、もしくは無いものとして捉えていて、特には何も考えていないからだ。車で皇居に近づくと、なぜか宇宙の不思議な重力空間のように、道路がカーブを描く。カーブの内側は石垣と緑の木々に囲まれて中が見えないので、私たちには「無い」も同然となる。実際、皇居が使われていないので、皇居のまわりの道路は基本的に交差する道はなく、交通はスムースで皇居自体をよけいに感じない。ただ、じっと壕の水の向こうに目を凝らすと、ブラックホールの ような、見えていても見えない場所がある。そこは、江戸以前の自然と、江戸時代の城の構造と、近代日本の天皇の居所としての3つの要素からできている。

東京には、ローマやパリのような長い歴史は無い。1600年頃から突如家康によって開発が始まった人口都市である。それも、最初の50年ほどで50万人、100年経ったときには100万人になった、世界でも類のない巨大な人口都市だ。1600年の時点でのこの途方もない公共事業の目的は、武士階級が日本列島全土を統治するための政治的な首都を作り上げることにあった。そのため、その中心には将軍の居城、千代田城(今の皇居)が、どでかく座っているわけだ。1600年までは川と入り江によって農地としても使いづらい原野だったこの地に、巨大な城が建ったためその中に造られた庭園は広大なもので、江戸以前の自然を抱え込むことになった。手つかずのまま今に残っている、というわけではない。しかし、常にある規模の土地が植物の繁茂と動物の繁殖に放置されているので、近代都市の中心に、オオタカを食物連鎖の頂点とする生態系が保たれていると言う、驚くべき結果を生んでいる。


ところで、この皇居を観光するとしたらどうすればいいのか。基本的には、天皇家の居住空間であって、観光することはできない。しかし、2つの側面から私達はこの皇居に近づける。ひとつは、その周囲を巡ること。もうひとつは、近代日本の民主主義のおかげもあって、すでに皇居の半分近くは公園として開放されている。公園の方は次回に書くことにして、今回はその周囲から全体を見てみたい。皇居の周りは、1周5キロ、信号無しの東京の名物ジョギングコースのなのだ。皇居を円い時計に見立てると、10時のあたりの千鳥ヶ淵では、桜のシーズンには豪勢な桜吹雪が見られる。6時のあたりの桜田門では、秋の黄葉が見事である。周回する場所によって異なる風景が見られ、ジョギングコースとして飽きることがない。儀式のための馬車に使う馬たちの匂いがするというから驚きだ。

私自身が好きなのは、四季を通じて6時の地点から9時に向かって、広大なお堀の水面が広がる風景である。そのお堀とは、江戸時代に城塞として建てられた千代田城が、近代に宮殿とその機能を変えたために、防御用の堀と石垣が不要になり、いわば壊すに壊せない巨大な廃墟となって残っていると言えるだろう。ローマで言えばコロシアムのような遺物が、短い歴史しかない東京に、すでに遺物の風格を備えて鎮座しているのだ。どんな文明都市も、そこに共存する遺跡があって深みを増す。京都には及ばないが、東京も、古さと新しさが積み重なった都市として、その歩みを始めている。


船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。フィールドワークを、メラネシア(ヴァヌアツ、パプアニューギニア)、ポリネシア(ハワイ、タヒチ)、日本(山形県庄内平野)、東アジア(中国、韓国)で行なう。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に『国民文化が生れる時』(94年・リブロポート)、『知の技法』(94年・東京大学出版会)、『新たな人間の発見』(97年・岩波書店)、『柳田国男』(00年・筑摩書房)、『二世論』(03年・新潮文庫)、『「日本人論」再考』(03年・NHK出版。2010年、同名にて講談社学術文庫にて再刊)、『大学のエスノグラフィティ』(05年・有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(07年 ・PHP新書)、LIVING FIELD(12年・The University Museum, The University of Tokyo)などがある。funabiki.com/

テキスト 船曳建夫
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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