空っぽの空間アート

『変成態―リアルな現代の物質性』 Vol.8 半田真規

空っぽの空間アート

Photo:Tadasu Yamamoto

2009年に馬喰町にオープンしたgallery αMのこけら落としとなったシリーズ企画展『変成態―リアルな現代の物質性』。現・豊田市美術館の天野一夫をゲストキュレーターに迎えたこの企画では、これまでに中原浩大や東恩納裕一、金氏徹平、鬼頭健吾など、現代を飾る美術作家が展示を行ってきた。約一年に渡るこの『変成態~』の最後を務めるのが、半田真規である。

半田は2005年の個展『白浜青松原発瓢箪』(児玉画廊/東京)で注目され、2007年の『夏への扉―マイクロポップの時代』展(水戸芸術館現代美術ギャラリーなど)にも参加。昨年は、先日まで東京都現代美術館で個展を開催していたドイツ現代美術の巨匠、レベッカ・ホルンに師事するため海外に渡航して活動していた美術作家だ。その帰国後初となる今回の個展に耳目が集まったわけだが、一見、内容はそれまでの作風からすれば裏をかかれたような印象を与えるだろう。

αMに行ったことのない人なら、空っぽの空間を見て何が作品なのか見当がつかないはずだ。だが一度でも足を運んだ人なら、ギャラリーの内観が一変していることが分かる。壁という壁、さらに柱や梁にいたるまで新しく内装が施されている。しかしよく見れば、本来内装に用いる壁紙などではなく、住宅の外側を覆う外壁に用いるサイディングボードを貼り巡らしているのだと知れる。そう、鑑賞者は室内にいながら室外の光景に囲まれていることになる。そしてこの部屋全体の空間こそが今回の展示作品なのだ。『白浜~』で示した人間と風景の有機的な関係や「マイクロポップ」的なドローイングを想像していたなら、非常に即物的に見えるこの作品を意外に思えるかもしれない。だが、思えば半田はこれまでの作品でもそうした試みを行ってこなかったか。

風景の反逆、とでも言おうか。なぜ我々は壁を壁と思うのか。ここが外側であるとなぜ言えるのか。木が木であると誰が決定したのか。なぜそれがそれとして存在しなければならないのか、そう存在させているのは何によってなのか、我々はそうした曖昧なものに囲まれた“状況”のなかで生きているのではないか、と半田は問う。だとすれば半田の作品はすべて一貫していると言える。作品に用いる素材などなんでもよいのだ。日用品に固執するまでもなく、日常という風景は転覆できる。言葉によって定義された世界がいともたやすく崩壊するのなら、言葉による意味の了解など誰も保障してくれないのだ、と。

そう考えたとき、私はこの展示室にいることが異様に恐ろしくなった。誰かによって意味を与えられた物質=“壁”が確固たるものであればあるほど(壁が堅ければ堅いほど拳で殴れば痛みを感じるのは私も誰かも同じだ)、意味の曖昧さが泥沼のように深みを増し(誰かにとっての意味は私にとっての意味と同じであるとは限らない)、私は意味を剥奪された空間に囲まれる。やがて私は意味からも物質からも遠ざかる。非在という空虚。この据わりの悪さ。そうだ、誰もが半田の過去のドローイング作品を観て、日常が牙を剥く瞬間を感じなかったか。空間や風景が反逆するという危機感を覚えなかったか。半田はそれを、誰かによって意味を与えられている(であろう)物質を用いて示すのだ。言わば、写真家・中平卓馬がイメージを排除して日常を見つめるのなら、半田はイメージを仮託されたものを媒介として日常を転覆させるのだ。この“仕掛け”から学ぶものはあまりにも多いが、真に恐るべきは「仕掛け」自体は軽やかで無邪気であることだろう。

『変成態—リアルな現代の物質性』Vol.8 半田真規
場所:gallery αM(ヴェニューはこちら
期間:2010年3月27日(土)まで
時間:11時00分から19時00分
料金:入場無料

テキスト 岡澤浩太郎
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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