ランドスケープ的観点から考える震災:Earthscape

デザイナー団塚栄喜の見た「あの瞬間」と「未来」、そして「人のつながり」と「記憶」

ランドスケープ的観点から考える震災:Earthscape

コンテンポラリーアートの視点から、人を幸せにするようなユニークな作品を生み出し続けるランドスケープデザイナー、団塚栄喜(だんづか えいき)。アーバンドッグららぽーと豊洲(ランドスケープデザイン)のグッドデザイン賞を始め、国内外で高く評価されている彼は、『情熱大陸』でも取材されるなど、自身のカンパニーEARTHSCAPEやMHCPを軸に、常に新しい活動を続けている。
震災の当日、彼が送ってきた「今からヒッチハイクで仙台から帰ります!」というツイッターのつぶやきを見てびっくりしたのを覚えている。商業施設から公共の空間まで幅広く手がけてきたランドスケープデザインのプロフェッショナルが実際に体験した「あの瞬間」とはどんなものだったのか。「人」と「場」を読み解き、そこから新しい作品を生み出してゆく彼が、この歴史的瞬間に現場で何を見て、何を感じていたのか。それは彼にどんな課題と可能性を見せてくれたのだろうか。団塚栄喜の言葉を通して、もしかしたら、みんなが探している答えのきっかけが、見つかるかもしれない。


震災当日の仙台駅周辺


震災当日、どこで何をされてましたか?
団塚:仙台に出張していて、ビルの5階にある広い会議室の長テーブルの上に10mの巻物(の形式にした資料)をダーっと広げてプレゼンテーションをしている真っ最中でした。会議には建築の専門家が集まっていましたし、その建物を設計した建築家もいたので比較的安心していましたね。「この建物はいつ設計したの?」、「耐震補強はどうなってる?」という感じで専門的な会話をしていました。免震になっているから大丈夫だということで安心して、揺れが収まった後も笑顔でしたね。というのも、停電であらゆるメディアが遮断されていて津波などの情報も全く入っていなかったからです。隣の会議室でも「すごいプレゼンテーションになりましたね」みたいな冗談も言えるくらいにその時はまだみんな落ち着いていました。

仙台という街は非常事態において、有効に動いてましたか?
団塚:地震発生当夜は表の通りに人が溢れていました。新幹線に乗って帰京しようと思ったのですが駅も封鎖されていて不可能。情報はないものの、街の様子からただならぬ地震だったことをだんだん実感してきて、咄嗟に一番大きなホテルであれば非常電源を確保してあるのではないかと考えて、それは結果的に正解でした。ホテルではフロアを開放していたので雑魚寝をして夜を明かし、その翌日ウェスティンホテルに行った時に初めて津波の映像を目の当たりにしました。ショックでしたね。一番復旧が早かったのはウェスティンホテル前の通りだったように思います。仙台のインフラは、一部はしっかりしていると感じましたね。コンビニもすぐに電気が点き始めていたし。復旧が早いなと思ったのですが、実はそこだけだったんですね。一部のインフラはしっかりしてるが他はやはりダメという状況でした。


バイクのライトだけで営業を続けた、コンビニの若者達


物資系は?
団塚:支援物資のようなものに関しては、地震発生直後には何も無くて、避難所として任意で人々を受け入れていたホテルなどの施設が、それぞれ用意できるだけのものを提供しているような状況でした。でも、それだって限度があるし、そういった意味では全くと言っていいほどなかったですね。コンビニも慌てて閉めている状態。その時、バイクの照明だけで若者達が営業しているコンビ二があるという噂を耳にしたんです。行ってみたら、ツッパリ2人組みたいな店員が自分のバイクのライトだけで営業していました。「何が欲しいの?」って。バリケードを作って各々聞いたものを店内の棚から持ってきて、「これでどうだ?」って商売してるんです。これはすごく助かりました。ここでカップラーメンや水を買うことができて、その後なんとか3日間過ごすことができました。

東京へはヒッチハイクで戻ってこられたそうですが、その経緯は?
団塚:東京へ帰ろうと思って駅に向かったところ、バスは乗れるかもしれないと言われたので、仙台駅まで行ってみたら、2000人ぐらい人の列。これはダメだと思って高額になるけどタクシーで帰ろうと考えましたが、それもつかまらない状態。これはもう、ヒッチハイクしかないなぁと思ったわけです。

ヒッチハイクで車が止まるまでにどれぐらいかかったんですか?
団塚:「山形、新潟」と書いた紙を出した瞬間に2秒で車が止まりました。それはね、そのとき皆が誰かのために何かしなくてはいけないって思っていたからだと思うんです。わざわざ通り過ぎた車が引き返してきて「今、山形って書いてあったよね?」って。乗せてくれた方は小さな子供のいる若い夫婦でした。それでまっすぐ山形まで直線で走りました。


南相馬市の『ゆめはっと(南相馬市民文化会館)』に作られた団塚栄喜の作品。
風景の断片を重ねあわせて作られたレリーフ。


あの日以来、世界は変わってしまい、全てを元に戻すことは不可能だと思ってしまいますが、団塚さんはどのように思われますか?失われたものは戻ってくると思いますか?
団塚:震災の発生する前、2004年くらいに福島県で仕事をしていたことがありました。今は合併して南相馬市に名前が変わっていますが、当時は原町市で『ゆめはっと(南相馬市民文化会館)』というホール内にアートワークを作ったんです。南相馬市の大地を石膏で型を取って作品を作りました。当時この街にはシンボルと言えるようなものがなかったんです。「相馬野馬追」というお祭りはあるけれど、それ以外には何にもないと地元の人々が言うんですね。でも、ここには立派な自然はあるし、きっといろいろと魅力があるに違いないと思って、改めて住民の人々に「好きなところはないですか?」とインタビューをしていきました。鮭の簗場があるとか、小学校に根っこが立派なケヤキがあるだとか、候補に挙がってきた場所を何十箇所も石膏で型を取り、南相馬市の風景の断片を重ねあわせてレリーフにしていきました。でも、そこの記憶の風景は今回の震災で全て失われてしまった。このレリーフの中にしか、その風景は残されていないんです。

作品のモチーフとなった場所は今、正に震災で跡形もなくなってしまった所ばかりです。今思えば当時僕がしていたことは、突然震災によって消えてなくなってしまった所の記憶のレリーフを作っていたということになるんですよね。先日ボランティア活動で南相馬市に行った時その作品を見たのですが、「ああ、こんなところだったんだ」って。かつての風景を思い出しましたね。作品の設置場所自体は、その時は自衛隊の本部になっていて被災された人々の為に機能している場所となっていました。ホールの先はほとんど全部壊滅してしまいましたが、作品の中にはまだその風景が残っているんです。


震災の洪水による被害で大きな被害を受けた南相馬市。
『ゆめはっと』に残されたレリーフの中にだけ、あったはずの風景が残されている。


この作品にも込められていますが、瓦礫をどのように片付けるかと同時に「どうやって記憶を残していくのか」、「失われたものをどのように形に残していくのか」といった発想も大事になってきますよね。このレリーフを見ると、それが予言のように込められているような気さえしますが。
団塚:ボランティアで、最初に僕は「遺留品洗浄」という仕事をしました。自衛隊が見つけてきた泥だらけの写真を一枚一枚キレイにはがして、刷毛で顔が見えるようにして分類して洗浄し、皆に遺留品を捜してもらうようにする仕事でした。まさしく記憶の断片がそこにはありました。瓦礫撤去もしましたが、無数の人々の記憶と向き合う「遺留品洗浄」の作業の方が僕にとっては、ずっとしんどかったですね。

「一瞬にして失われてしまったもの」はあまりにも多いのですが、それをある種の創造的な高みに持っていくためには何が出来るのでしょうか?例えば「ゆめはっと」にもう一度お願いされたら、何ができるでしょうか? おそらく、そうですね、当時関わってくれた人を中心として色々な人達にもう一度集まってもらいます。まずワークショップを開催して、「以前、この街はどうだったのか」とか「どんなことをした」とか皆の記憶をもう一回集め直し、それを繋ぎ合わせる作業をしたいですね。一人一人に今まで生きてきた物語を思い出してもらってそれをインタビューして2004年に作ったレリーフの横にテキストとして記憶を刻んだりするのもいいかもしれません。そういう形としては、もう、言葉でしか語り継げられないと思います。写真なんて生々し過ぎますから。記憶としては本当にとても重要だけど、具体的な景色を見続けることをある意味強要することになるのは酷だと思います。

放射能の問題は、地震とは全く違い、人々は怒りをもって立ち向かっています。こういったことをどのように受け止めましたか?
団塚:たとえば、南相馬市には現在でも何も変わらない日常がありました。居酒屋も開き直って普通に営業しているし、僕もそこに飲みに行って、おっちゃんと仲良くなったりして。 テレビ等では放射能汚染に関して深刻な報道がされていますが、実際には皆Tシャツ1枚で生活しているし、マスクもつけずに息だってしています。避難圏内ド真ん中だったのですが、情報がほとんどと言っていいほど無いのでもうしょうがない。僕らも「とにかく作業をしないと」という気持ちで、そんなことは気にしていられないと思いましたし。

正確な情報があればもっと良かったと思いますが、メルトダウンしていたことでさえずっと後まで公表されていませんでしたよね。放射能をスクリーニングする場所で毎日検査してもらっていましたが、そこでの情報も「大丈夫です。規定値以下です」って毎回言われるだけ。「ホンマかいな?」って思いますが、何を信じて良いか分からないから、もうそれを信じるしかない。自分の勘で判断するしかない状況がそこにはありました。

今や日本は震災と放射能問題でとても危機的状況にあります。そして政府に対しての不信感もとても大きくなっていて、人を信用する力を失っているように思えます。ここから何か新しいクリエイティヴな答えを見つけるとしたら、どうしたらいいのでしょうか?
団塚:それこそヒッチハイクの話に戻りますが、誰かを助けたいという気持ちは皆の中に共通して強く存在していることが分かりました。 ボランティア活動で、泥に埋まってしまった家をキレイにする作業をやりましたが、泥に囲まれている状態だから何度掃いてもいつの間にか砂まみれになってしまってキリがないんです。それでも僕は何回でも掃き続けました。そうするしかないですから。すると玄関の中から震災前のタイルが顔を出したんです。震災前の記憶が蘇るシーンが見えてくると、僕も家主のように本当に嬉しかった。家主のおばあちゃんもすごく喜んでくれて。ちょっとした気遣いだと思うんだけど、ほんの少しアクションで、気持ちが温かくなれるんですね。僕にとっての「クリエイティヴ」ってそういうことなんじゃないかなって思ったんです。掃除するだけでもいいやと。おばちゃんの記憶と繋がるというか、理解しあえた瞬間ですね。そういったことができたらいいと思いますし、今はそれしかないと思います。隣人同士が助け合うしかない。小さなコミュニティから再構築していくしかないと思いますね。

それでは、実際にタウンプランとか日本を良くする方法まで発展させていくのはどうしたらいいのでしょうか?
団塚:僕の周りにいる連中は、震災で起こったことを忘れたくないし、忘れないように気をつけていると思います。忘れがちな人達もいるかもしれませんが、僕はいつも思い出しますね。それは揺れた経験があるからかもしれませんが、1日に何度も思い出します。そして、必ずそこに立ち返るように気を付けています。あの時の記憶に戻る自分なりのスイッチの入れ方とか、思い出す方法論は、それぞれで作っておいた方がいいかもしれない。ただ、それは単純に”メモリアルを作ること”とは違うと思います。エリアは確かに広すぎて復興の規模も図り知れませんが、以前の生活さえ思い描くのが難しいあの場所に対しては、全く違う新しい世界の創造もあるような気がしています。ただ一つ言えることは、「隣りにいる人」との繋がりから新しい何かを創造することでしょうか。

仕事のやり方に変化はありましたか?
団塚:震災の経験が常に僕の頭にはあるので、物事を考える時、アイデアなどに影響を与えているかもしれません。考え方や、大きな意味での生活に対する実感や問いかけはスタッフも個々であると思います。海沿いのまちづくりでは津波の時の対策についても考えて欲しいという注文が実際にあったり。マンションや施設の企画自体の見直しが入ったり、細かく考えると色々あるのでそういった意味で変化しているのかもしれませんが、毎日忙しく仕事をさせていただいて、生活のリズムに変化はないので、それほど変わったという実感はないですね。節電対策で始業時間を早め、サマータイムを導入してみているのですが、それで仕事の効率は上がったように思います。


妻有トリエンナーレで開催されたメディカルハーブマンプロジェクトの様子。


「ハーブマン※」などエコな作品を作られていますが、自然エネルギーへのアプローチについてはどう思われますか?
団塚:身近な自然を見つめ直し、平和になったらいいなという思いを込めて続けているのが「ハーブマン」プロジェクトです。雨が降って大地を潤しその水を吸って…という循環が命を育んでいます。その恩恵を僕達人間は無意識のうちに授かっていることを忘れてしまっていますよね。すべての答えは自然の中にあるんです。 実は、エネオスさんが企画している太陽光発電を使った自然エネルギーのコンペティションの審査委員をすることになりました。これは学生からプロまで参加可能なコンテストで、入賞作品が実用化されることもあるかもしれません。 デザインの美しさだけが重要ではありません。たとえば、一本の木があるじゃないですか。その木陰で快適に過ごしたり、人の命ってその光合成によって生かされたりしている事実がある。自然エネルギーとは、一本の木の葉っぱのような自然と人との距離を近付かせるものでなくてはいけない。ハーブマンもそうだけど、このコンテストもそれを考えるきっかけになればと審査員の話も受けさせていただきました。

※ハーブマンと名付けられた人型のハーブガーデンを制作。そこで採れたハーブを使用したお茶や食事を販売するカフェを運営することにより得られた利益で途上国の小学校のグランドに遊び場をつくるプロジェクト(MHCP)。

テキスト 西村大助
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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