建築的観点から考える東日本大震災2

建築家、青木淳が語る「物理的な安全面だけでなく、どう精神的な安全をつくっていけるか」

建築的観点から考える東日本大震災2

撮影:筒井義昭

“面白いことなら何でも”しようと、自身の事務所を設立し、『LOUIS VUITTON OMOTESANDO』をはじめとするルイ・ヴィトンの建物や、『青森県立美術館』など、公共の建築から、商業施設、また、住宅までを手がけてきた建築家、青木淳。今回の震災から受けた“教訓”、そして、建築家としてやるべきことは何か。

3月11日(金)、地震があった時、青木さんはどちらで、どのように過ごしていたのでしょうか。

青木:東京の事務所にいました。自分の机のかたわらで、その日に届いていた手紙を開封していたら、揺れがはじまって、それがどんどん大きくなっていって、本棚の上に載せていた箱は落ちてくるし、本や模型は棚から飛び出し、床に散乱しました。8階建ての7階にあるので、そもそも地震のときは揺れが大きいのですが、今回の揺れは特別でした。揺れがようやくおさまって、事務所のスタッフたちと下に降りて、道路で1時間ほど、呆然としていました。

この被害をご覧になって、率直にどう思われましたか?

青木:だんだんわかってくる被災の大きさに言葉もありません。

青木さんは、青森に美術館を建てており、東北に思い入れもあると思いますが、今後、復興に関して、建築家として取り組んでいきたいことはありますでしょうか。

青木:まずは人命を救うことが緊急を要することであって、「建築家としてできること」は、その後だと思います。地震によって損壊しないように新しい建物をつくったり、損壊しかねない古い建物を耐震補強していくということについては、もちろん、この大震災があったからというのではなく、建築家なら誰しも、これまでもやってきたことだし、これからもやっていくことでしょう。ただ、今回は、建築家がどんな頑丈に建物をつくったとしても、太刀打ちできないことも多かった。たとえば、津波です。津波がもたらした被害は、ひとつひとつの建物ではどうしようもありません。どこに町をつくればいいのか、またどういうインフラが必要なのか、というような、建築よりもっとずっと大きな都市計画的レベルの被災でした。

たしかに、津波の被害で、まったくなくなってしまった町があります。

青木:まずは、日常の生活に戻って生活を立て直す、という一刻を争う問題がある一方で、同じような災害に二度と遭わないですむような安全な町をつくるという、一朝一夕ではできない長丁場の問題があります。反対の方向を向いたこの2つのことを両立させながら、復興を進めていくのは大変なことだと思います。ぼくの場合は、建築家としての立場で参加できそうなのは後者の方です。新しい町を一からつくっていくなかで、物理的な安全面だけでなく、どう精神的な安全をつくっていけるか、それに関わることです。

まっさらになってしまった土地に、何か新しいアイデアはありますか?

青木:津波で全滅してしまった町であっても、住んでいたところに戻りたいというのは被災された方々にとって当然のお気持ちだと思います。でも、津波の被害を受けた低い土地を、再び住居などの生活の場として復興していくのがいいのかどうか、疑問にも思います。平らな低地ではなく、高台や斜面に沿っての土地を新しい生活圏とする、いままでなかった町のつくりかたもできるはずで、その上で、水没する可能性のある場所として、低地のありかたをさぐっていくという道もあるように思います。そんな町づくりは、実験的な試みかもしれませんが、かつて自然発生的に町ができたときとは、現代は違う前提に立っていると思います。被害にあわれた低地を、拙速に、うわべだけとりつくろうことは避けなければなりません。

震災を受けて、建築という分野における“教訓”はありましたでしょうか。

青木:建築のなかでも、構造設計に携わっている人、環境設計に関わっている人など、寄って立つ場所でずいぶん違う“教訓”になっていると思います。そのなかで、デザインという立場で仕事をしているぼくにとっては、まさにデザインというものの意味にかかわる部分での“教訓”を感じます。デザインというと、他の人と違うものをいかにつくるかとか、あるいはその人固有の個性の表現をどう開発するかとか、つまり演劇的な非日常性を競っているところがあります。でも、こういういわば“商業的”な意味でのデザインは、今回の震災が起きた瞬間、もうどうでもいいものになってしまいました。おそらく、デザインというものは、ぼくたちの日常にかかわるものですし、その日常をどのようなものとしてつくっていくかに寄与するものなんです。これは、当然といえばそれまでの意見ですけれど、ぼくたちはそれをすぐ忘れてしまう。

青木淳 x 杉戸洋「はっぱとはらっぱ」展は中止になってしまいましたが、今、“建築”や“アート”ができることは何だと思いますか?

青木:日常の退屈から逃れるための演出ではなく、日常そのものをつくっていくことだと思います。たとえば、お金をいっぱいかけて設営をして、いっぱいの人がそれを見に来て、終わったら廃棄処分する、というような展覧会のありかたではなく、いまそこにある美術館という環境を、ほんのわずかでも、もっといいものにしてみるということを指して展覧会と呼んでみる、とか。実際、青森県立美術館で、杉戸さんと一緒にやろうとしていたことは、そんな展覧会でした。

そういうことを震災の前から考えていたのですか?

青木:はっきりと意識してのことではありません。たとえば、青森県立美術館は、ふつうデザインという言葉で想像するような意味での「かっこいいデザイン」とはぜんぜん違うものです。むしろ、そういうデザインが壊れてしまっているような感じです。でもそれは、デザインというものに反抗したかったからではなく、壊れてしまっているネガティブなもののすぐ裏側にポジティブなものが透いて見える、そういうありかたとしての日常をつくりだしたかったからだった、というのは、今回の震災で、かなりはっきりと意識できたことです。

青木さんの生み出すものに、今回の震災は何か影響すると思いますか?

青木:はい。それがどういうかたちで影響するのかは、まだわかりませんけれど、世の中がちがって見えるようになっただけでなく、ちがっていってほしいと思います。

テキスト 東谷彰子
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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