The Hot Seat:田淵広子インタビュー

二度の震災を目撃した日本人記者の視点

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The Hot Seat:田淵広子インタビュー

Illustration by Haruna Nitadori

3月11日の震災から4ヶ月以上が経過し、米紙ニューヨーク・タイムズ東京支局の田淵広子とランチをする機会を得た。まだ若いニューヨークタイムズのジャーナリストである彼女は、激変する震災の最初の段階から、ツイッターでフォローすべきオピニオンリーダーとして、また信頼できる分析で意見を述べる人として、その言動が多くの人達に注目されてきた。

もちろん、注目されていたのは彼女だけではないが、彼女の言葉の後ろに見え隠れするストーリーには引き付けられるものがあった。それ以来一度インタビューしてみたいと思い続けて今日に至ったというわけだ。

神戸市長田区出身の彼女は、1995年にこの街を襲った阪神・淡路大震災を15歳のときに体験した。友人の言葉を借りると、そのときの経験が彼女をジャーナリストの道へと誘ったと言うが、彼女自身は既にジャーナリストか救援活動家になろうと心に決めていたという。「そのとき、既に救援活動をするための勉強をしていたんです」と。

彼女のように、青春のど真ん中で神戸の震災を経験した人が、大人になりプロの報道者となった今、東北で起こった大震災についてどのように捉えているのか、どのように見ているのか、とても興味があった。そして、被災地へと足を運ぶたびに、自然災害に打ちのめされ、頼りない政治によってじれったい状態が続いているその現場が、どのように変わっているのか、変化はあるのか、そういったことも実際に話して聞いてみたかった。

-- 過去の話になりますが、神戸の大震災の後すぐに欲しいと思ったものは何ですか?

田淵:暖房です。神戸の大震災は一月という一年の中でも一番寒い時期に起こりました。そして電力は全て使えなくなっていました。みんな、布団を身体に巻いて寒さを凌いでいました。何でも良いから暖かくなれる食べ物を探していたのを覚えています…。温かいボウルを一杯でも良いから、欲しいと思っていました。

-- 今回の地震を見て、そのときの記憶も戻ってきたのではないでしょうか?

田淵:はい、津波による被害は私の体験とは全く違ってはいましたが…。津波による被害によって、被災して荒涼としたエリアとそこまで影響を受けていないエリアとが明確に分かれました。例えば、どこかの道に立ってみると分かるのですが、片側はほとんど正常な状態で、反対側は完全に洗い流されているといった状態なんです。

-- 震災のニュースは、むしろ海外のメディアの方が色々と伝えていたと思いますが、それについてはどう思いますか?

田淵:神戸の場合、復興するまでどれぐらいかかるのか、予想することはとても難しかったんです。「神戸は奇跡的な復興を遂げた」とよく言われますが、それでも10年はかかりました。私の出身地・長田は、神戸でも最も被害のひどい地域で、完全に焼け落ちたエリアでした。靴作りで有名な老舗の工場も立ち並ぶエリアでしたが、跡形もなく燃えてしまいました。震災から10年目、長田の街に戻ったとき目にした風景は、それらの靴工場が戻ってきている姿でしたが、多くの区画は駐車場などになっていました。お金のない人は再建することが不可能なので、神戸市はそういった産業を失ってしまったんです。それは、もう二度と戻っては来ません。

-- 東北も同じような運命を辿ると思いますか?

田淵:地震で壊された直後と、今現在の被災地を比較している写真がひと月ほど前に出回っていました。最初は、瓦礫の山で埋め尽くされていた場所が、今では綺麗になっているといった写真です。確かに物事は前進していますし、回復の方向に向かっていますが、東北にしても神戸にしても本当に復興というのは瓦礫を全て取り除いた後から始まるんです。人々が生活を取り戻すことができるのかどうか。それは10年、20年かかることなんです。

-- 僕が衝撃を受けたのは、石巻と気仙沼は、震災前から既に、過疎化が激しく進んでいた地域だったということです。人口がどんどんと減っていたと…。

田淵:そうです。本当に人々は帰ってくるのか?そこに仕事が戻ってくることはあるのか?そういったことは、もう政府がこの場所に仕事を生み出せるのかどうか、にかかってくると思っています。もちろんそれは、継続的な仕事でなくてはいけません。壊れた街を立て直さなくてはいけないので沢山の建築関係の仕事が生み出されるのは間違いありません。しかし、政府はこの街を永続的に復興させられるような政策を生み出せるでしょうか?何かに着手する前に、政府ははっきりと明確化されたメッセージでこれらの地域を復興させるプランを伝えていかなくてはいけません。

例えば、東北は再生エネルギーの新拠点にしていくとか。そうすれば、自ずと仕事が生まれてきますよね。だから今は信頼できるプランが政府から出てくるのを待っている段階だと思っています。そして、この震災直後から、「今こそ日本中のみんなが手を取り合い、一つの使命で立ち上がるときだ」という感覚が生まれていると思います。「緊急事態なのだから、今までとは違ったやり方をみんなで試していこう」という感覚です。

しかし残念なことに、政府が未だに政策を明示していないため、いつもは冷めていると思われがちな若い世代の「一体何ができるの?だったら僕はボランディアをやるよ」という熱い気持ちでさえも無駄にしてしまっています。日本の政治家は彼らのエネルギーを盛り上げていけるはずなのですが、今はそれが出来ていません。

-- 福島には長い時間滞在していましたか?

田淵:震災があった最初の週に、放射能危機について東京から報道していましたので、東北に実際に足を運んだのはひと月ほど前になります。今まで4回ほど福島を訪れています。

-- 放射能事故の立ち入り禁止区域に足を踏み入れたとき、どのように感じましたか?

田淵:私はその場所を訪れていません。私よりも年上の男性記者が入りましたが、私は入りませんでした。女性記者が何人かそこに入っていますが、私はいつか子供が欲しいと思っていますので、危険を犯して入ることはしませんでした。本当ですよ!気にし過ぎだと思われるかもしれませんが、大事な選択肢でした。

福島市からレポートを行いましたが、この街にも避難区域と同じぐらい放射線量の高い場所が何ヶ所もあります。ここは30万人規模の都市なので、大規模な避難指示を出すのを躊躇したのでしょう。もう少し小さければ、避難区域になっていたかもしれません。

-- そこでの生活はどうですか?

田淵:そこには、不思議な二重生活が存在していて、その不思議さを記事で伝えようとしました。 マスクもせず普通に水を飲み食事をして今までと同じように会社に通う人たちは、怯えている人達を冷静に分析していました。「悪い妄想のせいで、福島が悪く言われている」と憤る。しかしその反面で、主に母親達ですが、本当に心底怯えているんです。毎日放射能レベルについて厳しく目を光らせ、ミルクや蛇口の水を飲ませないようにし、県外から野菜を注文し、マスクはいつも装着していて、敵対的な気持ちでいました。ですから、PTAの集会などがあると、彼女らは「今までの普通の生活を返して」と言い争い、余計に周りの人達を怯えさせてしまいます。放射能が身体に及ぼす影響については、はっきり言うことは難しく、このどちらの側が正しいのかを決めることは至難の業なんですね。リスクとともに生活することができるのか、という話なんです。

-- では、そうやって怯えている人達のために何をすることができますか?

田淵:私がお話した女性の方は、本気で北海道へと引っ越ししたいと考えていました。毎日子供たちを外で遊ばせず、学校給食についても、材料と成分が明確ではないという理由で、食べさせないようにしているそうでした。そのかわり、家で作った弁当を持って行かせているそうです。そして、窓は締め切り、マスクも決して手放しませんでした。

-- さらに北の方ではどうでしょうか?何か変化は感じますか?

田淵:津波の前に気仙沼を訪れたことがなかったので、変化について言うことは難しいです。パッと見た感じでは、まだ津波の被害を受けたままのように見える場所もありましたが、地元の方によれば、ずいぶんと瓦礫も取り除かれているそうです。前よりもずっと良くなっている。水が引いていかない場所については、まだ浸水し続けていて、信じられないほどの悪臭を放っています。鼻をつんと刺激するような…。気仙沼にある魚の加工工場が被害を受けてしまったので、冷蔵庫の中に冷凍されていた大量の魚が全て溶け出し、腐り出した魚の強烈な悪臭が付近一帯に広がり始めています。それと同時に、気仙沼には石油タンクがあり、壊れたタンクからも石油が漏れ出してしまっているんです。つまり、腐った魚と淀んだ泥水と油が混ざった匂いなんです。港の周りを歩きましたが一瞬でも呼吸をすると、吐き気を催してしまいます。大量のハエも発生していますし…。復興への道のりは、とてもとても長いんです。


田淵広子のツイッターアカウントはこちら: @HirokoTabuchi

By ジョン・ウィルクス
翻訳 西村大助
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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