ウィリアム エグルストン 展

原美術館 展覧会『ウィリアム エグルストン: パリ-京都』レビュー

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「パリ」 2006-2008年 原美術館における展示風景
撮影:木奥惠三
『ウィリアム エグルストンズ ガイド』(1976年)から 1969-1971年頃 原美術館における展示風景
撮影:木奥惠三
「京都」 2001年 原美術館における展示風景
撮影:木奥惠三
ウィリアム エグルストン 「パリ」 タイプCプリント 28×35.6cm 2006–2008年 カルティエ現代美術財団蔵
Courtesy Cheim and Read, New York © 2009 Eggleston Artistic Trust, Memphis
ウィリアム エグルストン 「パリ」 タイプCプリント 28×35.6cm 2006–2008年 個人蔵、パリ
Courtesy Cheim and Read, New York © 2009 Eggleston Artistic Trust, Memphis

街角には首からカメラをぶら下げたカメラ女子があふれ、“写メ”によって1億総写真家の時代を迎えた今日この頃、カラー写真の先駆者と言われる写真家、ウィリアム・エグルストンの個展が原美術館で開催されている。

エグルストンは1939年、アメリカ南部の街に生まれ、アンリ・カルティエ=ブレッソンやウォーカー・エヴァンスといった写真家に強い影響を受けて写真の道を選んだ。自身の出自となるアメリカ南部の土俗的な光景・人物を写した『ウィリアム・エグルストンズ・ガイド』(1976年)が出世作となり、これまで商業写真として文化的に顧みられなかったカラー写真を“芸術”の域に高めた先駆的写真家、と呼ばれるようになった巨匠である。
開催中の『パリ―京都』展は、21世紀に入ってパリのカルティエ現代美術財団の依頼を受けて制作された『パリ』と『京都』のシリーズをメインに、『~ガイド』の一部を展示したものである。つまり、エグルストンの初期と現在を対比させる楽しみ方もできる。

現在のエグルストンはよりスナップ写真に近づき、また対象に近づき対象物の一部を切り取って撮影することで遠近感や対象そのものの描写を回避しより抽象化した、というのはよく指摘されることだ。たとえば、たとえ京都を撮っていても分かりやすいイメージ(神社仏閣や舞妓など)を撮影しない。写っているのは地元と思しき学校の制服を着た少女や生け簀で泳ぐ魚、地面から覗く配管など。そこに日本人や日本語が写っていれば日本だとは予想できるが京都なのか東京なのかを区別することは不可能で、撮った本人でなければ証明できない。エグルストンは都市の象徴的なモチーフを回避し、場所性を剥奪することを通して、“京都っぽい”という非常に観念的なイメージの世界として“京都”を提示する。抽象化された写真は詩的で抒情的な解釈を観客に許す余地を与える。
これは『パリ』シリーズも同様だ。恐らくパリ在住のフランス人でも、写された光景がパリなのかリヨンなのかマルセイユなのかは断言できないだろう。「いかにもパリっぽい」「京都らしい」と言ってみたところで、それはある種のオリエンタリズム的な先入観にも似て極めて怪しい解釈に過ぎない。こうしてみると、エグルストンの現在の“スナップ写真” “抽象化”といった指摘は、『~ガイド』のアメリカ南部の暗部(これも怪しい解釈になるが)に見られた“土俗性”という呪縛から逃れようとしているようにも見える。

こうしたある種の逃避を、やたらと“斜め”の表現が登場する本展の展示作品に沿って解釈するのは強引だろうか。モチーフが上下に真っ直ぐ伸びず左右どちらかに傾いている、正面から対象を写さず左右どちらかに角度をつけている、影や人物の足が斜めに落ちている、水平線が傾いている、構図の中央に被写体がいない、中心がなく視点が散在する、など。これらは対象物の世俗的な固定観念を排除する(被写体の意味を明らかにしない)と同時に、エグルストン本人の、かつて黒人奴隷制の象徴となったアメリカ南部出身ながら自身は白人富裕層の家に育ったという、帰属先が矛盾したアウトサイダーとしての彷徨=屈折を表しているようにも見える(唯一視線が合った被写体は『パリ』の“黒人労働者”である)。あるいは本展でも展示されているドローイング。主観性と恣意性が強く表れるドローイングと対にして写真作品を展示することで、写真というメディアが宿命的にもつ客観性から周到に逃れようとしている(飯沢耕太郎はこれを「おさまりがわるい」と著した。『美術手帖』(2010年5月号))。

このような屈折が、定点を嫌う“スナップ写真”へ、意味の固定化を嫌う“抽象化”や“斜め”へ、辿り着いたのだと考えるのは深読みにすぎるだろうか。この屈折を通し、あたかも太陽光を虹色に錯乱させるプリズムのように、エグルストンは光と色彩をフレームのなかで美しく乱反射させる。だからエグルストンは街角に転がっている何げなくどうでもよい光景――それが飲食店の看板だろうが死んだ魚だろうがただのゴミだろうが――を色鮮やかに明滅させることができるのだ。

『ウィリアム エグルストン: パリ-京都』
場所:原美術館(地図などの詳細はこちら
会期:2010年8月22日(日)まで

テキスト 岡澤浩太郎
※掲載されている情報は公開当時のものです。

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