2014年12月19日 (金) 掲載
外国の友人から、「東京で一番美味しい鮨屋に行きたいので教えてくれ」と聞かれる。そしていつも、こう答えるようにしている、「東京の鮨屋は、高いところに行ったらどこも美味しいよ」と。「高い」というのは、支払う金額がひとりあたり15,000円以上のことを指す。それ以下でも十二分に美味しい店はあるが、値段の高い店であれば築地の魚市場に行き、質の良い高価なネタを仕入れることができるので確実に美味い。逆をいえば、どの店も同じ食材を築地から手に入れるのだから味は値段相応、どこもさほど変わらないことになる。それでも人によって、どこが美味しいとかまずいとか言っているのはなにかといえば、自分のお気に入りの店を自慢しているだけで、贔屓の引き倒しみたいなものである。
では、鮨屋の職人の腕に差はないのかといえば、ある。握り鮨を出す前に出す、つまみにそれが発揮されたりする。しかし、市場に並んでいる魚を、包丁で刺身にすることで本来の味より美味しくするのは理論的に無理である。だから腕とは、美味しい食材をまずくしないかどうかという、マイナスを少なくするポイントにある。スポーツでいえば、思いっきり力を尽くす100メートル競走ではなく、なるべく失敗をしないようにするゴルフに似ている。だから、東京の鮨屋が美味しい謎は、築地のマーケットという日本最上にして最大の集積、配分のシステムがあるから美味しいのであり、逆にそのシステムがある限り、日本と世界における最高の地位は不変的なものとなる。
日本の友人から、「ニューヨークの鮨屋は美味しいよ」と聞かされる。それはほとんど嘘だと思う。ニューヨークのいくつかの鮨屋は、「東京の鮨屋の味に似ている」というべきだろう。その「いくつか」以外のニューヨークのレストランで出される鮨は、8貫ほどで50ドルもするのにもかかわらず味はひどい。それは鮨ではない。魚の破片がライスの塊の上にのっているだけである。私は、ことさらにニューヨークの鮨屋をけなしているのではない。日本の中華料理だって、北京の鴨料理や揚子江流域のスッポン料理と比べると迫力がない。シルク・ド・ソレイユをDVDで見るようなものだ。
もとより、鮨はこの連載の第6回(『鮨と江戸前』)で書いたように、遠浅の江戸湾で取れる多種類の小ぶりの魚や貝を味わうことで発達したのである。大ぶりの白身魚を捕って食べることで必要が満たされている北米のような場所では、手間のかかる、量も採れない小さな魚や貝を取ったりそれを味わったりする技術も文化も進まない。ニューヨークの鮨が美味しくないのは、食べる人が鮨にした魚や貝の味がわからないからである。それにしても、オバマ大統領がすきやばし次郎の鮨を食べたあと、「いままで食べた鮨の中で最高だ」と言ったと報道されたが、「今日は初めて鮨を食べたが美味しかった」が正しいだろうと思う。
もっとも、オバマが中トロが気に入ったように、鮨はマグロが一番好きという人であれば、北米やヨーロッパで棒状のご飯の上に、大西洋マグロの刺身をのせて食べてても構わない。東京でも、「青森県大間のマグロです」と言いながら職人が出し、客が美味しいと答えて食べている。そこに嘘はない。しかし、鮨にマグロはあるが、マグロが鮨なのではない。
ここまで来ると、要は、その食材の本場で食べるのが一番美味しいという地産地消の話になる。鮨のようにいわば「B級グルメ」の料理は、食材が生命である。私の期待は、日本でもニューヨークでも、そのあたりの海岸のニッチ(小さな生態系)に生息している海の生き物を、漁師が探索して味を試すことで、江戸前ではない鮨を作り出すことである。ひとつの例では、以前は東京の鮨に富山県の白海老はなかった。地元でも、もっぱら素麺の出汁に使っていたそうだが、冷蔵輸送が発達して効率の良いむき方も工夫され、東京でも鮨ネタに出るようになった。カリフォルニアロールも巻きものとしては単なる「応用」であるが、アボガドを鮨ネタにしたところは「発明」である。こうなると、思いがけないところに思いがけない鮨が誕生しそうである。
「鮨がB級グルメ」というところが読者に「謎」として残ったかもしれない。次回は『鮨の謎 2ーB級グルメ』について書いていく。
船曳建夫(ふなびきたけお)
1948年、東京生まれ。文化人類学者。1972年、東京大学教養学部教養学科卒。1982年、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程にて人類学博士号取得。1983年、東京大学教養学部講師、1994年に同教授、1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授、2012年に同大学院を定年退官し、名誉教授となる。近著に『旅する知』(海竜社)を2014年8月2日に発売。サンクトペテルブルグ、ニューヨーク、パリ、ソウル、ケンブリッジ、ロンドンを巡り、今、世の中ではどんな変化が起こっているのか。その変化には実は予兆があったのではないか。そしてその先にはどのような未来が待ち受けているのか。著者が文化人類学者として40年近く地球を旅する中で体感した、20世紀と21世紀をまたぐ、世界の文化と歴史を縦断する旅エッセイ。
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