2014年03月10日 (月) 掲載
起伏に富み、緑豊かな農村地帯だった福島県飯舘村。2011年3月に起きた福島第一原発の爆発事故の発生以来、原発から30~50Km地点にまたがるこの地は、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超える深刻な環境汚染を背負わされ、国から居住制限下の「計画的避難区域」に指定された。村にいた6000人以上の全村民は、未だに避難を余儀なくされている。避難先の仮設住宅では動物との同居が禁じられている故に、被災者は飼い犬や猫を自宅に残していかなくてはならず、その為、ペットを世話しに一時帰宅するという状況が、事故発生以来ずっと続いているのだ。付近10箇所に点在する仮設住宅から村までは、片道40分〜1時間以上の道程。事故から3年がたった今も生活の見通しが立たない上、村民には高齢者が多く、毎日の帰宅が叶う世帯は少ない。
日比輝雄が、人の営みが消えたこの村に取り残されている犬猫の世話をする為、65km離れた郡山市からほぼ毎日足を運び始めてから、400日を数えようとしている。今年70歳になる日比は、定年退職後、趣味の登山やアウトドアを満喫する穏やかな日々を送るはずだった。彼の第2の人生を一変させたのは、東日本大震災から1年が過ぎようとしていた2012年2月のこと。当時、神戸に在住していた日比は、始めたばかりのツイッター上で飯舘村に置き去りになっているペットの苦境を目にした。その悲惨な状況を丸1年、自分が何も知らずにいたことに愕然とし、インターネットで情報を収集し始めたのがきっかけだった。
その目で状況を把握するため、同年4月には現地に出向き、被災動物の保護シェルターでの手伝いを体験しながら、翌月からは新幹線とレンタカーで、月2回ほど村へ通い始めるように。インターネットを通じて知り合ったボランティア仲間と村の地図や情報を共有し、朝5時から夜9時まで、取り残された動物の給餌のためにたった1人で50~60軒を回る。夜、ホテルに戻って倒れるように眠り、明くる日また給餌に疾走する。飯舘村には彼のように活動を行うボランティアの受入態勢がなく、給餌で出る缶などのゴミは、引取りを交渉して現地のホームセンターで購入し調達した。神戸への帰路には毎回感情を抑えきる事ができず、仲間に報告を送りながら人目を気にせず泣くことのできる、グリーン車を利用した。7月、月2回の訪問では埒があかないと福島への移住を決意。住む場所を探し、8月末には郡山へ引っ越しを敢行、9月からはほぼ毎日、給餌活動に明け暮れる日々を送っている。
日比が短期間で村への移住を実行することになった背景には、1995年に起きた阪神大震災があった。人生のほとんどを神戸で過ごした彼は、震災当時、被害の最も大きかった長田区で、倒壊と延焼を免れ、重要な役割を担った病院の経営責任者として大災害に直面した。被災者の負担や仮設住宅の環境は、東日本大震災と比べて格段に酷かったと日比は当時を振り返る。建物の造り云々の話だけではなく、抽選制の入居によってコミュニティが崩壊し、住民の分断と孤独死が起きていた。後に、補償の対象として認定されるようになった「震災関連死」という概念に学術的に取り組んだのが、日比が勤務した病院だった。同じく、医療現場で現役の看護師として働く日比の妻、優子は、東日本大震災発生翌日、福島の原発が爆発する最中に宮城県へ医療支援の為に向かった。東北の被災者支援の初動と継続において、揺るぎない背景となった神戸での経験。福島への移住は、彼ら夫妻にとって迷いのない選択だった。
ボランティア仲間との活動連携と足で稼いだ地道な情報収集により、日々更新されるリストには210世帯、給餌を待つ198頭の犬、314匹の猫が記載されている。それでも、正確に数えることが不可能な猫は、少なくとも犬の倍は存在すると見られている。極度の不安やストレスで弱り、飢えが蔓延、現地の悲惨な状況は隠しようのない現実だった。散歩に出掛け、毎食の餌を食べることで成立していた犬らしく、猫らしい暮らしは寸断されたままだ。日比は、目の前の命を精一杯に繋いで回る。
必死で子育てをするある母猫の姿に心を奪われて以来、彼は人間が消えた村で生きる猫の弱さに着目し、何としても守りたいと思うようになる。もともと人間に飼われていた猫が子どもを抱えて家屋に居着いても、餌を与える人間がそこにはいるわけではない。数日分を生き延びる為に与える置き餌は、住民から活動への苦情にも繋がる為、餌場の設置に家主の了承が不可欠なのはもちろんのこと、餌を狙うカラスや野生動物を近づけないための工夫が必須となる。彼らボランティアに近寄って来る猫には、できるだけその場で温かく、栄養価の高い餌を食べさせることにしている。自然のままに、と生まれては遺棄されてきた命。反してフォローなき繁殖制限(TNR)の是非。村民や他のボランティアとの間でも、それぞれに異なる考え方の擦り合わせを模索しながらも、立ち止まるわけにはいかない。動物や天気が相手では予定通りには行かない事の方が多いが、日比はなるべく2日以上は空けずに村へ行くと決めている。子育て中の母子猫、TNR活動が追いつかずに増え続ける新しい命、介護が必要な老犬など、誰の手からもこぼれ落ちるような弱者の中の弱者の存在があるからだ。日比の仕事は、時には老犬の看取りにまで及ぶ。
2012年9月のある日、山奥深く、辿り着くのも困難な家屋で、彼が初めて目にしたその犬は、小屋の中ですでに死んでいるかと思われるほどにぼろぼろだった。もう年だから、と飼い主も見放した18歳の老犬チビと、日比は忘れ得ぬ10ヶ月間を共に過ごした。残飯を与えられても口にしないチビに、さまざまな工夫を凝らして栄養価の高いフードを口元まで運んで食べさせ、運動をさせては見守り、手当をし、行程に追われる中でも必ず30分、彼のそばに寄り添った。手をかけるうちチビの目には光が戻り、見違えるほど毛艶も良くなった。しかし翌夏には、認知症による徘徊が始まり、放置されたまま人の背丈ほどに伸びた茂みの中で、チビが行き倒れているのを日比は3度と発見し、その度に助けた。その後、ある事故をきっかけに体調を崩したチビは、2013年7月、日比からの連絡で飼い主が駆けつけた15分後に静かに息を引き取った。「せめて人間との関わりの中で命を全うさせてやりたい」。その一心で、彼は飼い主たちの意向も汲み取りながら、根気強く働きかける。動物の尊厳の為だけでなく、家族の一員であるはずの動物を見捨てなくてはならない被災者の悔いや罪悪感を、少しでも軽減したいという想いからだ。
この村の犬猫が置かれている状況、それはそのまま、この村の被災者の状況の反映であると日比は語り、彼の動物に対する活動はあくまで人間の支援であることを強調する。飼育の慣習の違いはあれ、可愛がっていたペットを、突然置き去りにせざるを得なくなった被災者の負い目や淋しさ、苦悩に寄り添うことを何よりも重んじる彼の姿勢は、毎日帰宅してから2時間ほどを掛けて更新する、自身のブログからも見て取れる。これは、現地の情報を発信する役目を担うとともに、自身がその日のデータをまとめながら、翌日の給餌ルートを決めるための重要な作業でもあるのだ。先月、日比は古稀を迎え、活動に4日に1度の休みを挟むようになった。当然重圧もあるが、ひとりの手に負える数は限られているため、無理はしないよう決めている。
日比をはじめ、いくつかのボランティア団体の継続的な活動によって、避難先の家族や被災地以外の新しい家族の元へ迎えられた命もある。動物の世話を含む、村の自警組織「見守り隊」の意識の変化や、他県からのボランティアの増加も実感しつつあると言う。ひとりでも1軒でも1時間でも多く、村に入る支援の数が増えることを願いながらも、このような活動に早く終わりがくればいいと日比は思う。動物が1日も早く飼い主と共に暮らせるようになること。それは、個人や外部からの力では実現し得ない。失われたものをひとつずつ取り戻すため、環境の改善を求めて住民達が自力で立ち上がらない限り、解決には至らないというもどかしさがある。今後、最も懸念されるのが、やがて始まるであろう廃屋の解体だ。居着いた猫はわずかな居場所を追われ、季節の厳しさと飢えた野生動物のただ中に剥き出しで放り出されることになる。
村の各地では、汚染土の移動作業によって生まれる巨大な黒い塊が積み上がり、他地域からの放射性汚染物質を持ち込み処理する為の、焼却施設も建設が予定されている。過酷事故の後処理には見通しも終わりもなく、環境への脅威も目に見えぬまま不気味に村を包んでいる。村人達はただ、故郷へ帰りたいという想いに留められ翻弄される日々が続く。どこまでも置き去りとなる命への重圧を抱え、高線量地帯へも迷わず向かわせる動機を日比はこう語る。「僕ら自身の世代で、原発社会を作ってしまった負い目は大きい。ごめんなぁという想い、それが一番。あと5年、10年。この村の行く末を見守り、何らかの決着を見届けたい。その為にも、今後も被災者に寄り添う活動を続け、喜寿までは生きたい」。
6年後、東京は世界を迎えてオリンピックを開催する。その裏で、どれだけの命が蹂躙され、警告が黙殺され続けるのだろうか。3.11を機にプレートの活動期に入った日本列島は、さらなる大地震と大津波が予測されているが、政府は原発の再開と輸出を進めている。大都市の電力を支えた発電施設の過酷事故から3年。東京から250kmの同じ空の下、命の記録は今日も刻まれている。
日比輝雄による活動報告ブログ ameblo.jp/t-hibidas/
氏が活動協力をするシェルター『福猫舎』fukunekoya.com/
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